孔子(こうし)の言葉に、「似て非なるもの」という言葉があります。
外見だけ似ていて、中身がまったく違って紛らわしいもののことです。
孔子とは中国の人で、道徳を作った人です。
その弟子が、「孟子」(もうし)という人と、「荀子」(じゅんし)という人の二人いるんですが、この二人が考え方の相違から二つに分かれます。
何を、もめたかと言うと、人間の本質が善なのか悪なのかということです。
人間は元々は善なので、話せばわかるよっていうのが「孟子」で、
人間は元々は悪だから、力でねじ伏せなきゃっていうのが「荀子」です。
その「荀子」の弟子で「韓非子」(かんぴし)という人がいます。
この人が凄い人で、師匠の「荀子」の考えをとことん発展させて、庶民をねじ伏せる手段を考えだします。
「法律」と「刑罰」です。
中国が初めて統一され、秦(しん)という国が出来ました。
その秦が、「韓非子」の思想を取り入れて、法治国家(ほうちこっか)を築きあげます。
道徳のように、生易しいものではありません。
「法律」で、がんじがらめにして、「法律」に逆らうものは容赦なく、「刑罰」を与え殺してしまいます。
「法律」は庶民の為のものではなく、王の権力の象徴として利用されるのです。
道徳のように、許すという感覚は無いのです。
恐怖で、脅すのです。
国家権力という巨大な暴力で、庶民の暴力をねじ伏せるわけです。
力で力を抑えるわけで、数字の大きい方が強く、団結した庶民の力の方が強くなると革命が起こり国家が崩壊する場合もあります。
日本の武士は、徳川家康の時代に「朱子学」(しゅしがく)を義務教育
として勉強させられました。
「朱子」(しゅし)は、先ほどの前者である「孟子」の弟子で、人間は元々は善人だという主張の人です。
「韓非子」とは、真逆の人です。
徳川家康は、武士を善人に教育する方が統治が楽だと考え、「朱子学」を利用します。
「法律」で脅すのではなく、殿様への忠誠心を「道徳」で徹底的に叩き込み、他人の為に死ぬ事が美徳だと教えました。
こうして、中国と、日本は、全然、正反対の歴史を歩んできました。
日本人が、お人好しでよく騙されるのは、こういうことも原因なんだろうと私は思います。
「道徳」と「法律」は似ているようで、実は全然違うということです。