幸福のお話2

三大幸福論に、ラッセル、ヒルティ、アランの三人が、有名ですが、今回、アランの幸福論を紹介させていただこうと思います。

 

岩波文庫の神谷幹夫さん訳のアラン幸福論が、おすすめです。

 

 

 

みんな、幸福になりたいと思って生きています。

 

だけど、なかなか、幸福とは、何かが、イメージとして湧きません。

 

単に快楽や苦痛が、幸福の基準ではないと、アランは言っているように思います。

 

病気で、経済的に苦しい人でも、幸福を感じている人がいるかもしれません。

 

反対に、健康で、裕福な人でも、不幸と感じている人もいるかもしれません。

 

人、それぞれ、幸福というものは違うものです。

 

自分の幸福を考えるうえで参考になると思うので、アランの幸福論を機会があれば読んでみて下さい。

 

 

 

それでは、その内容ですが、アランは、幸福が自分の外に存在するもののようには考えていないようです。

 

物事が、うまく行ったから嬉しいのではなく、嬉しいからうまく行ったのだと考えるべきだと言います。

 

憂鬱な人間は、幸福は結果であって、原因ではないと考えます。

 

しかし、あなたが将来、幸福であるように思うとしたら、それは、どういうことか考えてほしいとアランは言います。

 

それは、今、あなたが、すでに幸福を持っているということです。

 

期待を抱くということ。

 

それは、つまり、幸福であるということなのだと、アランは言います。

 

今、現在を幸福だと考えられない人は、将来も幸福にはなりえないということです。

 

メーテルリンクの「青い鳥」も、結局、同じような意味あいなんだと私は思います。

 

 

 

それから、何を幸福というのかは、人によって違うのでしょうが、アランは、旅行を例えにして言います。

 

名所から名所へと急ぐ人たち。

 

見てきたところを人に言うためなら、これ以上の方法はあるまい。

 

しかし、それが、はたして自分の為になっているのかと。

 

目的地よりも、旅の過程を楽しむことが、旅の醍醐味と言えるように、幸福も同じだとアランは考えているようです。

 

生きるということに、目的地などは無いと考えるならば、ゆったりと旅の景色を楽しむように、人生も、一日、一日の風景を、ゆったりと楽しむことが幸福だというわけです。

 

 

 

そして、幸福を手に入れるためには、諦めないで努力することが必要なのだとアランは言います。

 

 

うさぎに逃げられた猟師の話では、猟師には、二種類の猟師がいて、幸福な猟師と、不幸な猟師があるのだとアランは言います。

 

不幸な猟師は、うさぎを捕まえられなかったことを嘆き悲しみ、幸福な猟師は、うさぎの狡猾さに感心し、次ぎは、どうすればいいのかを考え、それを楽しむ。

 

うさぎは、好き好んで、鍋に駆け込むわけでもないし、雲雀は焼き鳥になって落ちては来ません。

 

人間の味方をしてくれるのは、人間の営みだけだと言います。

 

棚からぼた餅のような幸福は、なかなか無いということです。

 

困難も、楽しみと取るか、悲しみと取るかは、気持ち次第なのだとアランは言っているようです。

 

 

 

それから、アランは、幸福になるためには人との接し方も重要だと考えていたようです。

 

礼儀正しさを学ぶのは、ダンスを学ぶのと同じで、ダンスの規則を学んでも、それは入り口にすぎず、ダンスを上手に踊るためには、相手に合わせることが必要だと。

 

他人に合わせることが出来ない人は、空気を読めない「K・Y」と言われる人達です。

 

結局、自己中なんでしょうね。

 

そういう、自己中で、幸福を感じれない憂鬱な人に言いたいことは、ただ一つだとアランは言います。

 

「遠くをごらんなさい」

 

自分のことなど考えずに、遠くを見るがいい。

 

仏教の煩悩も、自分に執着することからおこります。

 

自己中心に物事を考える人は、幸福から、もっとも遠いところにいるのだと、アランは言っているようです。

 

自分に拘るという気持ちは、命に係わる大切なものです。

 

しかし、それに執われすぎると、大切な自分を、結局は、不幸にしてしまうのだと、アランは考えているのでしょう。

 

天気が曇りの日でも、雲の向こうには、いつもと変わらない太陽があります。

 

曇りに惑わされず、太陽を、心に思って、いつも笑顔で他人と接したいものです。