道徳のお話

日本人のモラル

 

道徳という言葉があります。

 

道徳とは教える事は出来ないが学ぶ事は出来ると言う老子道徳経(ろうしどうとくきょう)の言葉です。

 

先人の生き方を手本として同じ道を進むか、それとも違う道を進むかを決めるのは自分だという事です。

 

司馬遼太郎の「尻啖え孫市」という本が、講談社文庫から出ています。

 

どんな内容?

 

と聞かれたら、戦国時代の雑賀孫市(さいかまごいち)という人が主人公で、信長に最後まで抵抗した鉄砲を得意とする集団の頭領のお話だと答えることが出来ます。

 

主人公の生き方が、男っぽくて面白いのも、この小説の魅力でしょう。

 

しかし、私は、他の側面にも関心させられました。

 

その側面とは、浄土真宗(じょうどしんしゅう)のことが詳しく語られていることです。

 

浄土真宗とは、仏教の一派です。

 

当時、浄土真宗は、本願寺教団や一向宗(いっこうしゅう)や門徒の衆(

もんとのしゅう)と言われていました。

 

日本人が他の国の民族と比べて極めて善良なのは、浄土真宗の影響があったからだと思われます。

 

私は、別に浄土真宗をおすすめしようとしているのではありません。

 

当時の日本の仏教は、いろいろな宗派が存在しました。

 

だけど、ほとんどが、貴族や、武家を対象にした宗派で、学問のないお百姓さんは相手にされていませんでした。

 

そこに目をつけたのが、本願寺教団の第11代顕如(けんにょ)という人で、彼が、お百姓さんをターゲットに爆発的に信者数を増やしたのです。

 

日本はお百姓さんの国です。

 

人口のほとんどが、お百姓さんです。

 

その、お百姓さんが、信者になれば、大教団になるのは当前の事です。

 

加賀で一向宗が弾圧された事で一揆(いっき)を起こします。

 

弾圧した守護大名の富樫政親(とがしまさちか)を滅ぼし、農民の自治が100年続きます。

 

織田信長(おだのぶなが)は、これを叩き潰そうとします。

 

フランシスコ・ザビエルは門徒宗(一向宗)を悪魔と呼び、織田信長にカトリックを擁護する見返りに鉄砲を与えます。

 

 

大阪の本願寺教団は、信長に対抗するために、主人公の孫市を頭領に担ぎ上げ、鉄砲は堺の鍛冶職人によって瞬く間に増産され、本願寺教団の孫市も鉄砲を装備して銃撃戦が繰り広げられます。

 

そういうお話です。

 

当時の世界で、一番、信者数が多かったのはキリスト教のカトリックだと言われています。

 

そして二番目が、浄土真宗だったのです。

 

信長が潰そうとしたにも関わらず潰すことが出来ず、秀吉の代で大阪城が築城される場所にあった教団の寺院を秀吉に譲らせて、和歌山県に移動させる事で教団の存続を約束して和睦が成立しました。

 

つまり、大阪城は一向宗との戦勝記念に建てられた城というわけです。

 

徳川家康の時代には家康が、本願寺教団の後継者争いをうまく利用して、脅威であった大教団を、東本願寺と、西本願寺の二つに分断させて両者を敵対させて力を削ぎました。

 

その為、今は、世界二位ではありませんが、当時の大多数の日本人が、この教団から多大な影響を受けたのは、歴史上、間違いありません。

 

 

浄土真宗は、どういう宗派なのか?

 

浄土真宗とは、中国で景教(けいきょう)の影響を受けて生まれた仏教です。

 

景教というのは、東ローマ教皇だったネストリウスという人の弟子達が中国にもたらした、煉獄思想(れんごくしそう)や、聖母マリアを、神の母とは認めずに人だとするキリスト教です。

 

おそらく、マグダラのマリアを重要視していたキリスト教徒だと思われ、日本に渡来して蘇我氏と結託して、世界で初めて推古天皇(すいこてんのう)という女帝を生んだ経緯があります。

 

地中海沿岸の古い教会に、しばしば見受けられると言われる黒いマリア像は、ローマ教会からは異端とされたマグダラのマリアがモデルのようです。

 

煉獄(れんごく)とは天国と地獄の中間に位置する世界で、悪人ではないけれどキリスト教以外の神様を信じる人々の主な行き先として、後から作られた世界です。

おそらく、キリスト教を布教するにあたって異教徒がキリスト教に改宗する際にキリスト教の存在自体を知らなかったご先祖様や家族の行き先が地獄だと改宗させにくいという現実的な問題があったのだと思います。

 

しかし、この煉獄から天国へとご先祖様を導くにはお金の寄付が必要と免罪符(めんざいふ)というものが考え出され、これが宗教改革の引き金となって聖母マリアと煉獄を認めないプロテスタントが生まれます。

 

カトリックからは異端とされ、キリスト教と認められていませんが、ネストリウスの追放には、政治的な陰謀も絡まって、大変、複雑になっています。

 

こちらも、文春文庫の司馬遼太郎「ペルシャの幻術士」の中の「兜率天の巡礼」で、詳しく書かれています。

 

日本の浄土教の話しに戻りますが、罪人でも、阿弥陀如来(あみだにょらい)を信じて、念仏を唱えれば必ず助けていただける。

 

これは、キリスト教の懺悔(ざんげ)に似ています。

 

本人の修行によって、悟りを開き、解脱して救われるという従来の仏教と違い、信仰により救われるというところも、キリスト教に似ています。

 

阿弥陀如来の下に、全ての人が平等だというところも、キリスト教に似ています。

 

阿弥陀如来なら煉獄などなくても家族も平等に天国に連れていってくれるというわけです。

 

フランシスコ・ザビエルは門徒宗を悪魔と呼び、織田信長にカトリックを擁護する見返りに鉄砲を与えます。

 

鉄砲は堺の鍛冶職人によって、瞬く間に増産され、本願寺教団の孫市も鉄砲を装備して銃撃戦が繰り広げられます。

 

信仰の対象も阿弥陀如来だけという一神教的なところもキリスト教に似ています。

 

空海の真言宗は、バラモン教や、ヒンドゥー教の影響を受けているので多神教となり、仏像も多くて、美術的、文化財的な価値は魅力的なんですが、浄土教の阿弥陀如来だけを信じるという姿は庶民にも分かりやすく団結しやすかったのだと思います。

 

つまり、何が言いたいかと言えば、浄土教が普及したおかげで、日本人の心の奥に、平等という精神が生まれ、キリスト教的な道徳観念が知らない間に培われていて、本人の自覚もなく、日本人の行動に影響を与えてきたのではないかと思うのです。

 

阿弥陀如来とは?

 

落し物が盗まれもせずに警察に届けられていたり、電車の中で、無防備に棚の上に荷物が乗せてあっても誰も盗らなかったり、日本では盗る人の方が圧倒的に少ない状況です。

 

これは、盗られる人の身になって物事を考えられるからで、他者との縁を大切にする和の精神とも言えます。

 

自力で弱肉強食の世界を渡らなくても、善い行いをして神様を信じていれば、きっと、神様が助けてくださる。

 

日本人の中には、そう思っている人が結構いるのかもしれません。

 

ルールを守らない人は守らない方が得をすると思っているからで、全ては損得勘定が基準になっています。

 

しかし、そういった自己中心的な人々の多い社会は治安が悪くなり、決して住み心地の良い社会とは言えず、結果として自分に帰って来る事となります。

 

仏教では因果応報と呼ばれます。

 

日本の童話は悪人は天の裁きを受けて自滅する結末がほとんで、こういったものからも学習しているのだと思います。

 

キリスト教ではマタイによる福音書の6章19節に地上に「富」を積んではならないと、天に「富」を積む事を推奨します。

 

「富」とは「徳」の事です。

 

童話で善人が最後には幸福になるという結末です。

 

童話もまた先人が築いた教育の為の道です。

 

神道、茶道、華道、剣道、柔道、伝統芸能、全て先人が築いた道であり、継承して新しい道を切り拓いていく事が「徳」を積む事になるようです。

 

先人の思いが詰まった道徳の教育が行き届いているかどうかが、天国と地獄の鍵を握るというわけです。