水間寺(みずまでら)

今日は、貝塚市にある水間寺にやって来ました。

聖武天皇が42才の厄年に病気になられ、その時に、奈良の都より西南の方角に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)がご出現なされると夢のお告げがあり、行基(ぎょうき)に探しに行かせました。

そして辿り着いたのが、この水間の地で、そこに老人が現われて行基に仏像を手渡し、龍となって天に飛翔したそうです。

行基が、その仏像を持ち帰ると、聖武天皇の病気は、たちまち全快して、その後、聖武天皇は、この仏像を現地にお祀りするようにとの勅命を下し、厄除け観音として庶民にも信仰されるようになったそうです。

浄土教では、観世音菩薩(観音菩薩)は、勢至菩薩(せいしぼさつ)と共に、西方浄土の阿弥陀如来(あみだにょらい)の脇侍で、阿弥陀如来の化身とされます。

33の姿になって人々を救う菩薩とされ、第33代天皇の推古天皇(すいこてんのう)を指すようです。

観世音菩薩は慈悲(じひ)を表し、勢至菩薩は智恵を表すそうです。

勢至菩薩は、サンスクリット語では摩鉢羅鉢多(マハースターマプラープタ)と言い、「偉大な威力を獲得した者」という意味だそうです。

野見宿禰(のみのすくね)のように「足」の力の強い仏様で、「足」の一踏みで三千世界はもとより、大魔王の宮殿さえも揺るがすという怪力の持ち主だとされます。

相撲の「四股」(しこ)であり、持統天皇や元明天皇の祖父である蘇我倉山田石川麻呂を意味するものと思われます。

 

阿弥陀如来(宗像三女神)の脇侍の観世音菩薩が太陽(天照大神)で、勢至菩薩が月(月読命)という対比は、薬師如来(天武天皇)の脇侍の日光菩薩と、月光菩薩と同じような関係になるようです。

薬師如来は薬王菩薩の事で、イエス・キリストをモデルにした菩薩と思われます。

天智天皇は他にも、不動明王、天武天皇は毘沙門天という異名があり、それぞれ、京都の東山区の清水寺(きよみずでら)で観音菩薩と共に祀られています。

観音菩薩は、経典などでは本来、男性なのですが、絵画や彫刻では女性的な姿で描かれることが多い仏様です。

中国の道教には、航海・漁業の女神に媽祖(まそ)という女神がいて、観音信仰と結び付いたため、日本も、その影響を受け、地蔵菩薩が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音菩薩は女性的な顔立ちの像容が多いようです。

地蔵菩薩が物部氏を表し、観音菩薩が秦氏を表すようです。

水間寺の水間とは、蕎原川(そぶらがわ)と秬谷川(きびたにがわ)が合流して近木川(こぎがわ)になる合流地点にあり、この名前がついたそうです。

「間」(ま)は「無」(む)ではない「悉有仏性」(しつうぶっしょう)の「有」(う)を意味します。

「悉有仏性」とは、全ての人は仏になる素質を持っていて、誰もが皆、平等だという事です。

 

水間寺と同じ「三つ巴」が神紋の有間神社(ありまじんじゃ)という神社が神戸市北区にあります。

「有間」(ありま)は「有間」(うま)=「馬」(うま)であり、「車」(くるま)や「足」(あし)を意味するようです。

ご祭神は大己貴命(秦氏)、少彦名命(蘇我氏)、事代主命(物部氏)の三神が祀られ、三氏族が一つになった宗像三女神を意味していたと思われますが、それらを統一する意味で、969年に藤原氏の祖神であり、造化三神の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が加えられ、今の形となるようです。

「皇極天皇」が「斉明天皇」として二度即位する「間」(あいだ)に即位した「孝徳天皇」(こうとくてんのう)には有間皇子(ありまのみこ)という皇子がいました。

私は物部氏系の「孝徳天皇」と、蘇我氏系の「仁徳天皇」は同一人物で、それぞれの役を「蘇我倉山田石川麻呂」が演じたものだと思います。

それを皇極天皇に繋いだ人物が巨勢徳多(こせとこた)で、蘇我倉山田石川麻呂の別名であり、「徳」の「多」い人物になります。

それは皇極天皇を皇后とする推古天皇と同じ秦氏系の「舒明天皇」(じょめいてんのう)に繋ぐための「後付け」ではないかと思います。

繋いだ後は、推古天皇は滅ぼされた蘇我氏の系図に組み込まれたものと私は思います。

 

孝徳天皇について

 

物部氏を表す兄の「天智天皇」と蘇我氏を表す弟の「天武天皇」の「間」(あいだ)には孝徳天皇の皇后となった「間人皇女」(はしひとのひめみこ)という兄妹がいます。

 

また、よく似た名前の聖徳太子の母の「穴穂部間人皇女」(あなほべのはしひとのひめみこ)は「蘇我氏」と「物部氏」の争乱を避けて丹後に身を寄せたとされ、「間」(あいだ)は、「秦氏」を象徴するようです。

 

「間」(あいだ)を「間」(はし)と呼ぶのは「蘇我氏」と「物部氏」を結び付ける「橋」(はし)であり、ペルシアの古名である「波斯」(はし)の意味を含ませているものと推測出来ます。

 

「箸」(はし)の話はこちら

 

水間寺には入口である「山門」(さんもん)がなく、「橋」(はし)がその代わりとなります。

 

こちらは、蕎原川(そぶらがわ)に架かる厄除け橋と呼ばれる石の橋です。

蕎原川(そぶらがわ)は、昔は蕎麦原川(そばはらがわ)と書かれたようで、蕎麦(そば)と係わりがあるのでしょうか?

蕎麦はヒマラヤ原産ですが、縄文時代から食べられていて、百済系の渡来人によって日本に持ち込まれた食べ物です。

ビタミンB1や、B2が豊富で、白米を食べることで脚気になりやすかった江戸で人気となりました。

切れやすいことから悪縁を切るとされ、悪縁を来年まで持ち越さないという意味から、「年越し蕎麦」が食べられるようにもなります。

蕎麦に含まれるルチンは、毛細血管を丈夫にして、脳梗塞や、心筋梗塞の予防にも良いとされ、まさに厄除けの食べ物と言えます。

「荒神」(こうじん)さんと係わりの深い食べ物です。

蕎麦の話

厄除け橋の隣に仏像があります。

聖観世音菩薩のようです。

厄除け橋は物部氏を表す橋なのかもしれません。

そして、こちらは反対側の秬谷川(きびたにがわ)に架かる通天橋と呼ばれる橋です。

秬(きび)は黍(きび)の昔の漢字で、五穀の一つであり、インドが原産だとされます。

弥生時代に渡来人によって日本に持ち込まれたとされ、黄色の実をつけることから「黄実」(きみ)と呼ばれ、それが転じて「黍」(きび)となったというのが有力な説のようです。

近い品種に、トウモロコシや、サトウキビがあります。

「黄船」に乗った玉依姫(たまよりひめ)など黄色や白色は秦氏を表す色になります。

中国の黄河では粟(あわ)が作られましたが、長江では黍(きび)が作られたそうで、長江文明の影響を受けた渡来人が日本に持ち込んだものと思われます。

おそらく、吉備(現在の岡山県)が最初に黍(きび)を持ち込んだ場所で、吉備団子(きびだんご)は現在はきな粉(大豆)ですが、昔は黍(きび)の粉を使用していたそうです。

吉備国は藤原氏の出身地で、藤原氏の祖である藤原不比等(ふじわらふひと)の母が秦氏である鏡王女(かがみのおおきみ)なので、藤原氏と秦氏は同族だと言いたいようです。

 

個人的には、桃太郎で有名な吉備団子より、黍大福の方が粒々感があって好きです。

吉備国は、藤原氏の先祖と思われる温羅(うら)というタタラ製鉄に長けた百済系の渡来人の漢氏(あやし)が住んでいました。

雉(平群氏)、猿(物部氏)、犬(大伴氏)を引き連れた桃太郎(雄略天皇)に退治される鬼として有名ですが、日本で最初に稲作が行なわれた地域でもあり、塩の生産地としても有名で、出雲と並んでヤマト王権に組しない強大な独立国家でした。

吉備国には、瀬戸内海の海上を制する海部氏(籠神社の社家)がいて、兄媛を応神天皇に、弟媛を仁徳天皇(蘇我倉山田石川麻呂)に嫁がせ、婚姻関係を結び、ヤマト王権と連合していました。

 

応神天皇は元々は天武天皇がモデルであったと思われますが、八幡神(やはたしん)として皇極天皇が主役となり、住吉大社でも皇極天皇を神格化した神功皇后(じんぐうこうごう)が加えられます。

 

仁徳天皇の妃になった弟媛(乙姫)が、有名な黒媛で、あまりの美しさに吉備国まで仁徳天皇が追いかけて行った話が、後の浦嶋太郎の物語を生んだきっかけにもなったと思われます。

 

浦嶋太郎の浦(うら)は、温羅(うら)のことで、宇良(うら)とも書きます。

藤原氏のルーツの卜部氏(うらべし)を意味します。

通天橋とは、ひょっとしたら「亀」に乗って辿り着いた龍宮城に繋がっているのでしょうか?

漢氏(あやし)は、後漢霊帝の子孫と言い、東漢(やまとのあや)と西漢(かわちのあや)の両系に分かれ、その後に渡来した今来漢人(いまきのあやひと)を加え、巨大な氏族として存続しました。

蕎原川(そぶらがわ)と、秬谷川(きびたにがわ)が合流する近木川(こぎがわ)は、今来漢人を表しているのかもしれません。

京都に平野神社という神社があります。

桓武天皇(かんむてんのう)の生母の高野新笠(たかののにいがさ)を神格化した今木神(いまきしん)という神様が主祭神で、久度大神 (くどのおおかみ)、古開大神 (ふるあきのおおかみ)という神様も祀られます。

蕎原川(そぶらがわ)が竈の神で久度大神 (くどのおおかみ)、秬谷川(きびたにがわ)が打出の小槌の古開大神 (ふるあきのおおかみ)、そして、近木川(こぎがわ)が蘇我氏の時代(天武天皇の時代)を終わらせた今木皇大神 (いまきのすめおおかみ)というわけです。

 

後の時代に、この三神に宗像三女神として比賣神(ひめかみ)が加えられ、「八姓の祖神」とも称され、平野神社の神紋は「桜」になります。

 

日本の「桜」は、西洋の「実」を食べる事を目的としたセイヨウミザクラと違い、観賞用の「花」を目的とした品種改良が行なわれた為に、子供が出来ず、「今だけの木」になります。

 

天皇家が選ばれた「永遠の命」の磐長姫(いわながひめ)ではない「美」の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)です。

 

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の「木」(この)は華道の祖である小野妹子(おののいもこ)の「小野」(この)であり、蘇我氏を物部氏に嫁がせた「小野氏」(おのし)を意味するのかもしれません。

 

近木川流域に南近義神社(みなみこぎじんじゃ)という神社があります。

そこには弥都波能売神(ミツハノメノカミ)が祀られているそうです。

弥都波能売神(ミツハノメノカミ)は、宗像三女神の一人の多岐都比売(タギツヒメ)のことで、橋姫(ハシヒメ)とも呼ばれます。

磐長比売(イワナガヒメ)や、丹生都比売(ニウツヒメ)、菊理比売(キクリヒメ)など、数々の異名を持つ女王卑弥呼のことで、蘇我氏系の女神でもあります。

「亀」が使いの龍宮城の乙姫様も、弥都波能売神(ミツハノメノカミ)のことです。

奈良県橿原市小房町にある観音寺の「おふさ観音」は白い「亀」が乗り物です。

「おふさ」は細い糸を束ねて垂らした「房」(ふさ)を意味し、忌部氏を祀る安房神社(あわじんじゃ)のある千葉県南部は昔は「安房国」(あわのくに)や「房国」(ふさのくに)と呼ばれ、推古天皇を表す言葉になります。

「亀」は長寿ですが美しくないので、「岩」の磐長姫を表しているようです。

奈良県斑鳩町の中宮寺(ちゅうぐうじ)が所蔵する阿弥陀如来の極楽浄土を表したと思われる「天寿国繍帳」(てんじゅこくしゅうちょう)には「亀」の形が描かれていて、その中に穴穂部間人皇女を意味する「部間人公」の四文字が記されています。

穴穂部間人皇女は推古天皇の別名であり、仮の姿になるようです。

 

近木川は、物部氏と藤原氏が桓武天皇の時代に蘇我氏に勝利し、天皇家に繋がり、大和王権に統合されるという意味かもしれません。

天寿国繍帳

通天橋を渡ってすぐ、階段があります。

登ってみましょう。

少彦名命(スクナビコナノミコト)という神様がいます。

素戔嗚尊(スサノオノミコト)のことで、粟嶋大明神(あわしまだいみょうじん)とも呼ばれ、全国の淡島神社で祀られています。

粟の産地であった阿波国(徳島県)は、黄河文明の影響を受けた渡来人の蘇我氏が住んでいた地域で、そこからついた名前だと推測されます。

少彦名命が、「少」という文字がつくのは大物主命の「大」に対して当てられた文字で、ヤマトタケルの別名の小碓尊(おうすのみこと)が、兄の大碓尊(おおうすのみこと)の「大」に対して「小」という文字が使われていることと同じで、蘇我氏(素戔嗚尊)より物部氏(大物主命)の方が偉大だということを強調する目的があるようです。

大物主命は刃物である「剣」が象徴ですが、少彦名命は、一寸法師(いっすんぼうし)のモデルとも考えられ、「針」を「剣」の代わりとしたのは、「針」が蘇我氏が持ち込んだ文化だからだと思われます。

海幸彦(蘇我氏)の持っていた「釣り針」も同じ意味です。

山幸彦(物部氏)は自分の持っていた「十拳剣」(とつかのつるぎ)を砕いて失くした「釣り針」を作ります。

繍仏(しゅうぶつ)と言って仏像を表現した刺繍(ししゅう)が推古天皇の時代に広がり、聖徳太子の愛用品として「針」を入れた撥鏤針筒(ばちるはりづつ)と呼ばれる筒が正倉院(しょうそういん)にあるそうです。

「針」を通した縫い目には呪力が宿るとされ、第二次世界大戦では「千人針」というお守りも生まれました。

現在、神社で売られている刺繍が施されている「お守り」も同じ意味があるようです。

「針供養」は、主に淡島神社で行なわれています。

一寸法師が「針」で鬼(藤原氏)を退治しますが、その時に、鬼が落としていったとされる「打出の小槌」(うちでのこづち)という宝物があります。

振ると何でも願い事が叶うという代物ですが、おそらく製鉄で刀を作る時に使用する「金槌」を表しているのだと思われます。

吉備国の製鉄の技術を手に入れてヤマト王権が「鉄」という武器を手に入れたということです。

「針」(十拳剣)が「刀」(草薙ぎの剣)に変わるわけです。

 

八岐大蛇を斬った「十拳剣」(とつかのつるぎ)は、「天羽々斬」(あめのはばきり)や、「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)、「布都斯魂剣」(ふつしみたまのつるぎ)など様々な名前があります。

奈良県天理市の布留川(ふるかわ)の川上から流れて来て、切れ味鋭く、岩などあらゆるものを切り刻んでいた剣ですが、娘が洗濯をしていた「白い布」(おそらく絹)にすっぽり入り込んだ途端、嘘のようにおとなしくなったとされる霊剣です。

「布に留まる」で「布留」(ふる)で、「布留川」(ふるかわ)は「古川」(ふるかわ)や「振川」(ふるかわ)とも書かれます。

「古」(ふる)は推古天皇を意味する言葉で、「布留」(ふる)は物部氏を演じる蘇我倉山田石川麻呂を意味します。

推古天皇と蘇我倉山田石川麻呂は同族なので、同じものだとして統一する狙いがあるのものと思います。

布に留まるのは裁縫の「針」を意味しているのかもしれません。

「布留川」の水源は「龍王山」(りゅうおうざん)という山で、「亀」ではなく「蛇」を象徴する山になります。

 

大国主命(大黒さん)は、「打出の小槌」を持って描かれますが、出雲は、蘇我氏(素戔嗚尊)の国でしたが、蘇我氏が滅んだ後は、大国主命が、その後継者となって、「打出の小槌」を譲り受けたようです。

 

古開神(ふるあきのかみ)は蘇我氏を代表する天武天皇(てんむてんのう)の長子の高市皇子(たけちおうじ)を祖とする高階氏(たかしなし)の祖神とも言われ、古開(ふるあき)の開(あき)は安芸(あき)などの秋(あき)の神様で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の桜の開花を象徴する開化天皇(かいかてんのう)=皇極天皇が生まれる以前の神様という意味があるのかもしれません。

 

天武天皇の孫の長屋王は藤原四兄弟との政争に負けて、天皇家からは離れ、甲斐(かい)の国造りを行った狭穂彦(さほひこ)の子孫となるようです。

狭穂(さほ)には物部氏、蘇我氏、秦氏の三氏族を保つ三保(さほ)という意味があったようです。

持統天皇も天武天皇と合葬されてからは市杵島姫(いちきしまひめ)や思惟(しい)の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)いう主役から狭穂姫(さほひめ)という脇役に変えられたものと私は思います。

宗像三女神の多紀理毘売命(たきりびめ)という「佐保の春霞」(さほのはるがすみ)=「春日」(かすが)の女神となります。

当初、文殊菩薩の乗り物である「獅子」は蘇我倉山田石川麻呂を表し、普賢菩薩の乗り物である「象」は皇極天皇を表していたものと思われます。

 

開化(かいか)は蘇我氏が貝(開)に変(化)わるという意味もあり、貝塚はそのお墓を意味するのかもしれません。

 

観音菩薩(観世音菩薩)は「御名」(みな)を唱えるとその「音」を「観」(感)じてあらゆる「苦」から救ってくださると「観音経」には書かれています。

「御名神」(みなかみ)であり、「三名」(みな)=「皆」(みな)の神になります。

 

しかし、現在、「南無観世音菩薩」(ナムカンゼオンボサツ)と唱える人はほとんどおらず、「南無阿弥陀仏」(ナムアミダブツ)と「南無妙法蓮華経」(ナムミョウホウレンゲキョウ)が主流になります。

念仏は上座部仏教にもありますが、この言葉に特化したのは、法然や親鸞、そして日蓮などの僧侶の影響が第一ですが、それ以外に権力者であった藤原氏の影響も無視出来ないものと思われます。

弁財天のお堂があります。

弁財天とは厳島神社(いつくしまじんじゃ)などで祀られる市杵島姫(いちきしまひめ)の事で、宗像三女神の中心的存在で、ヒンドゥー教のサラスバティーという川の女神を仏教が取り込んだものですが、その名前からも分かるように財産の神様でもあります。

寶女王(たからのひめみこ)の諱(いみな)を持つ斉明天皇(皇極天皇)を意味します。

「財」に「貝」という漢字が使われるのは、中国の殷(商)の時代に、殷の人々が「通貨」として「貝殻」を使用していたからだと言われます。

殷が滅亡した後、一部は現代の漢民族になり、一部はシルクロードを通って商人と呼ばれ日本に渡来しました。

殷の人々は「貨幣」などの現実的な利益に価値観を置く人々でした。

仏教を日本に伝えた蘇我氏が殷の文化(黄河文明)を継承する渡来人のように思われます。

殷は、元々は道教の多神教の国で、女神崇拝の強い国でした。

この為、世界史上初めての「卑弥呼」(ひみこ)(元祖天照大神)という女帝が日本で誕生することになります。

市杵島姫は「壱與」(いよ)(新しい天照大神)に当たり、「台与」(とよ)(豊受大神)と共に卑弥呼の後継者となります。

宗像三女神はこの三人を統一する女神で、天岩戸から出て来た天照大神になります。

神道派の物部氏や、藤原氏は、百済系の渡来人ですが、ルーツは殷と敵対していた羌(きょう)と同族の人々だと思われます。

現在のチベット人と同じルーツです。

殷を滅ぼした周の人々も羌とは同族で、「羊」などの家畜を大切にした遊牧民でした。

「義」、「善」、「美」など精神的な美徳には「羊」という漢字がつきます。

これは、周という国の人々が、そういったものに価値観を置く人々だったからだそうです。

周は、儒教の一神教の国で、男尊女卑の傾向の高い国でした。

角(山)は男性のシンボルで、貝(海)は女性のシンボルというわけです。

 

日本では「弁財天」は、宗像三女神という3人の女神の一人ですが、それらを全部まとめたものが、観音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)を従えた「阿弥陀如来」(あみだにょらい)になります。

 

勢至菩薩は、うま年の守り本尊で「勢いに至る」「巨勢氏」を意味し、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘で三穂津姫(みほつひめ)に当たるようです。

持統天皇は天智天皇の娘で、母が遠智娘(おちのいらつめ)になります。

持統天皇が権力を握っている間は、釈尊に代わって般若の「空」(くう)を説く智慧の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)や市杵島姫が自分に当たるものと理解していたと思われます。

 

 しかし、「三人寄れば文殊の知恵」と「文殊菩薩」は宗像三女神の側面が強調され、三穂津姫を意識した狭穂姫(さほひめ)=三穂姫(さほひめ)となり、同じく蘇我倉山田石川麻呂の娘で、遠智娘の妹である姪娘(めいのいらつめ)を天智天皇に嫁がせて生まれた第43代天皇の元明天皇(げんめいてんのう)と天武天皇と持統天皇の孫で、元明天皇の娘である第44代天皇の元正天皇(げんしょうてんのう)が「二つの元(もと)」=「二元」(ふげん)の「普賢菩薩」(ふげんぼさつ)として新しい主役となります。

 

元明天皇が天智天皇の娘なのに対して、元正天皇は天武天皇が直系になるので、元明天皇と元正天皇は、天智天皇と天武天皇の二人の元(母)である皇極天皇(象)が纏める形となったのかもしれません。

 

「普賢菩薩」の乗り物である「象」は「聖天」(しょうてん)さん=ガネーシャを表し、皇極天皇(パールヴァティー)の分身になります。

 

「普賢菩薩」(ふげんぼさつ)は「文殊菩薩」と共に「釈迦如来」の脇侍とされます。

天武天皇が薬師如来なのに対して、釈迦如来は天智天皇という構図を藤原氏は考えていたのかもしれません。

 

天智天皇と姪娘(めいのいらつめ)の子供は、御名部皇女(みなべのひめみこ)と阿閇皇女(あべのひめみこ)がいて、阿閇皇女が元明天皇として即位します。

 

「部」(べ)や「閇」(べ)は閉(べ)と同じく、滅んだ氏族を表す時に付く言葉で、「御名」(みな)は観音菩薩を表す推古天皇であり、「阿」(あ)は「阿」(くま)=「熊」(くま)を表し熊野権現の素戔嗚尊や蘇我氏を意味する言葉になります。

 

三重県伊賀市にある敢國神社(あえくにじんじゃ)は阿閇氏(あべし)を祀る神社で、主祭神は四道将軍の一人の大彦命(おおひこのみこと)になります。

 

大彦命は物部氏の後を継いだ大伴氏を指すようです。

 

物部氏と双璧をなす大伴氏は元々は蘇我氏の警護をする七姓漢人で、天武天皇の事でしたが、皇極天皇に吸収されたものと推測出来ます。

 

西を守護する阿弥陀如来は、蕎原川(そぶらがわ)と、秬谷川(きびたにがわ)の合流した近木川(こぎがわ)=斉明天皇(皇極天皇)ということのようです。

 

第37代天皇の斉明天皇(さいめいてんのう)は「斉」(さい)=「西」(さい)が「明るい」という意味で、「37」(みな)の天皇になります。

 

「皆」(みな)は宗像三女神を意味します。

 

水無(みな)について(千手観音菩薩)

写真には写りませんが、花びらが舞っていて花吹雪です。

桜の絨毯が出来ています。

公園に着きました。

水間公園という名称で、360本のソメイヨシノの桜が植えられているそうです。

天気にも恵まれて、花びらが風に乗って、とても綺麗です。

桜の公園の中に観世音菩薩の像です。

「サクラ」は、中国では「櫻」と書きます。

ユスラウメを指し、ユスラウメの実が実っている様子(サクランボとよく似た実)を貝の首飾りを付けた女性に見立て、この漢字が生れたそうです。

貝は財宝の象徴だったようです。

日本では、実よりも花が、観賞用に品種改良が行なわれ、貝ではなく、三本の角を生やした「桜」という字が生れます。

鐘があります。

芦屋の民話によると、「打出の小槌」で叶った夢も、鐘の音が鳴ると、全て消えてしまうと言われています。

「祇園精舎の鐘の声」と言われますが、本場の祇園精舎には鐘は無かったそうで、仏教が中国の殷の時代に青銅器の鐘を祭祀に使用していたことから結び付き、それが日本に伝わったようです。

日本では出雲、淡路、近江(淡海)、阿波といった蘇我氏のいた地域で銅鐸がたくさん発見されています。

銅鐸が使用されたのは推古天皇の時代までで、3世紀以降は、突然、姿を消し、いっせいに土の中に埋められてしまったようです。

鐘にまつわる話は紀州の道成寺(どうじょうじ)の鐘の中に隠れる安珍(あんちん)を蛇の姿で鐘ごと焼き殺す清姫(きよひめ)の「安珍・清姫」(あんちんきよひめ)の伝説などが有名です。

安珍は熊野権現(素戔嗚尊)の化身とされ、清姫の「清」(きよ)は元々は和気清麻呂(わけのきよまろ)など推古天皇の氏族を表す言葉なのですが、「蛇」の姿というので、皇極天皇の市杵島姫と同体になった宗像三女神を意味するのかもしれません。

鐘の中に隠れるのは天岩戸に隠れた天照大神であり、「亀」を象徴しているのかもしれません。

 

岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)など「岩」(蘇我倉山田石川麻呂)から「染」(し)み出た「清(染)水」(しみず)という意味もあるようで、推古天皇の代わりになった蘇我倉山田石川麻呂の「岩」(いわ)は「亀」の親という立場にンあるようです。

 

藤原氏の氏寺である興福寺(こうふくじ)の仏教哲学の唯識(ゆいしき)では「一水四見」(いっすいしけん)と言う言葉があります。

「水」には四通りの見方があり、天人はこれを瑠璃(るり)(ラピスラズリという宝石)と見、人間はこれを飲み物と見、餓鬼は血や火と見、魚(畜生)はこれを住処と見て、同じ物でも立場によって見方が変わる例えです。

観音菩薩は「海」=「水」に例えられますが「清水」(しみず)は住吉四神の「四水」(しみず)という意味があるようです。

観音菩薩も立場によって見え方が変わるようです。

 

清和源氏(せいわげんじ)=清和天皇(せいわてんのう)の母である藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)は「染殿」(そめどの)と呼ばれ、「源」(みなもと)は「御名の元」(みなのもと)を意味するようです。

 

「おふさ観音」の観音寺では夏の間、「風鈴まつり」が行われます。

土佐光重画『道成寺縁起絵巻』

立里荒神と書かれています。

荒神(こうじん)さんは、物部氏の祖先である大物主命(三輪明神)の荒魂(あらみたま)とされ、仏教では石神の地蔵菩薩とされます。

しかし、本来は素戔嗚尊(風)のことで、少彦名命(スクナビコナノミコト)が祀られます。

別々だったものが、大物主命に統合され、三宝荒神(さんぽうこうじん)と呼ばれるようになったものだと思われます。

水(観音菩薩)と、火(地蔵菩薩)の対極の力が交わると、風(弥勒菩薩)が生まれ、その三つの力を、総称して三宝と呼ぶようです。

竈の神と、よく言われるのは、台所が、昔は火と水と風を起こして、ご飯が炊かれたことに由来するようです。

弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、まだこの世に出現していない救世主とされ、ゾロアスター教ではミトラという火の神様になります。

ミトラは、ゾロアスター教の文献によれば千の耳を持つとされ、仏教では北を守る多聞天(毘沙門天)になるそうです。

ゾロアスター教では、ミトラ(火)とヴァルナ(水)と三位一体のアフラ・マズター(風)が最高神となります。

インドと敵対したペルシアの神様なので、仏教では「~天」とは付かず「阿修羅」(あしゅら)と呼ばれます。

本来、聖徳太子は素戔嗚尊を太陽神にしようと思っていたようですが、藤原氏によって、乱暴者として高天原を追放され、暴風雨の神様になってしまいます。

荒神さんの誕生には、そういった複雑な背景があるようです。

みなかみは 清き流れの水間寺 願いの底は 濁らじ

 

                       水間寺 ご詠歌

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