天橋立 籠神社(このじんじゃ)

今日は、休みだったので、天橋立に遊びに行きました。

家を朝の7時頃に出て、11時半ぐらいに着きました。

雪が降った後でしたが、一応、晴れでした。

おみやげ屋さんが並んでいます。

こちらは、おみやげ屋さんの道の正面にある智恩寺。

臨済宗妙心寺派の寺院ですが、もとは、密教(真言宗)のお寺で、

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)を祭っていて、日本三文殊の一つと

されます。

 

文殊菩薩が登場するのは、初期の大乗経典で、特に般若経典です。

「華厳経」では、善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれ

ます。

文殊菩薩の特性は、悟りへ到る「般若」(智恵)と言われています。

 

なんでも、荒れ狂う龍に難儀したイザナミとイザナギが、文殊菩薩の

知恵を借りて、龍を大人しくしたそう。

神道も仏教も、ごちゃまぜなお話ですが、とにかく、ここは、龍の里

なのです。

お寺参りは、これくらいにして、しばしば龍に例えられる天の橋立を、渡ろうと思います。

これが、廻旋橋。

遠くに雪山が見えて、綺麗な景色でした。これから渡ろうとする天の橋立は、幅20メートル~170メートルの道で、長さが、3.2キロメートルもあるそうです。

橋を渡ったところに地図がありました。

こんな感じの松林が、ずっと続きます。

余談ですが、松竹梅は、なんでお正月に欠かせない縁起物なのかご存知でしょうか?

松も竹も、冬の寒さにも枯れないで、青々としているし、梅なんかは、花まで咲かせるということで、その生命力の強さで、めでたいらしいです。

日本酒の銘酒に、「雪中梅」というのがあります。

さっぱりしていて、ちょっとだけ、ピリッとするような美味しいお酒です。

あ~なんか、熱燗が呑みたくなってきますね。

隣は、すぐ海です。

波の音と、潮の香りと、鳥の鳴き声が聞こえます。

ここは二番目の橋の大天橋。

今日は、雪が降ったせいか、周りに誰もいなくて静かです。

これは、途中にある「はしだて茶屋」と言うお茶屋さん。

延々と松林が続きます。

松ばっかり写真に撮っていても仕方がないので、ここら辺でやめておきます。

やっと、3.2キロメートルを渡りきりました。

周りは、白銀の雪で覆われています。

これから何処にいこうというのでしょうか?

実は、ここに来たかったのでした。

じゃ~ん

一の鳥居。

二の鳥居を越えると、籠(この)神社です。

参拝する前に、まずは、手を洗いましょう。

ここは、元伊勢と呼ばれ、伊勢神宮の内宮と外宮の両方が祭られていたところです。

元伊勢は、日本全国、いろんな所にありますが、だいたい天皇を敬うことからか、内宮(天照大神)しか祭っていません。

「3人よれば文殊菩薩の智恵」というように、力を合わせることで、能力は格段に増します。

太陽と月(火と水)の力が合わさったら、とんでもない力を発揮します。

その合わさった聖地が、ここなのです。

話は変わりますが、私の家系は、武家の棟梁、清和源氏です。

鎌倉幕府を開いた、源頼朝や、源義経と同じ氏族です。

清和源氏は、清和天皇の家系ですが、藤原氏の血が濃いので、内宮も外宮も、両方が、ご先祖様なのですね。

倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)の像。

天照大神の孫で、天照国照彦火明命(あまてるくに てるひこ ほあかりのみこと)別名、天火明命(あめのほあかりのみこと)という神様が、ここの主神です。

この像は、その主神の四代目の子孫で、神武天皇が、明石海峡に辿り着いた時に、亀に乗って現われ、神武天皇を案内したとされます。

右手に龍の珠と言われる「如意宝珠」を持っています。

亀は、中国では、寿命の長い霊獣とされ、その影響か、日本でも、神事には、亀の甲羅を焼いて、入った亀裂で、卜占(占い)をしていました。

藤原氏の前身の中臣氏は、京都の山科の中臣町の出身ですが、以前は、卜部(うらべ)氏(占部氏とも浦部氏とも表記)と言い、亀の甲羅を焼いて、朝廷の神事を任されていました。

それぐらい亀は、神秘的な生き物だったようです。

浦島太郎が、亀に乗って不老不死の竜宮城に行くのは、偶然ではないようです。

これは、籠神社の絵馬です。

天火明命(あめのほあかりのみこと)が、お后の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と一緒に、竹で編んだ籠船に乗って、海の彼方の海神の宮(龍宮とか、常世とか言う)に行かれたという故事から、ここが、龍宮(このみや)という呼び名になったという由来を絵馬にしているようです。

左の紋が、籠神社の神紋で、「三つ巴」という水が渦巻く様子の紋です。

右の紋は、籠神社の裏神紋と言われていて、六芒星(ろくぼうせい)の中に太陽と月が書かれています。

六芒星は、ユダヤ教では、ダビデ王の紋章と言われています。

△と、▽の二つが重なって出来る紋で、陰と陽、火と水、男と女などの相反する力が重なることを意味するらしいです。

日本では、この紋は、竹で編んだ籠の形から、籠目紋(かごめもん)と呼ばれています。

こんな感じで、中に六角形が出来るのが特徴です。

実は、この六芒星は、絵馬を見ていただいたら分かるように、亀を図柄にしたものです。

白い部分が、亀の胴体で、金色の部分が、頭と、手足と、尻尾です。

絵馬を買う時に、籠神社の巫女さんが言われていましたが、天火明命(あめのほあかりのみこと)は、天照大神の孫だそうです。

別名を饒速日命(にぎはやひのみこと)と言い、製鉄技術に長じた物部氏の祖神です。

えべっさん(鍛冶の神様)と同じで、雷を起こす火の神様です。

物部氏は、神道派の藤原氏と一緒に、仏教派の蘇我氏と戦いますが、負けて物部氏は滅ぼされてしまいます。

大神神社(おおみわじんじゃ)に祭られている大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は、饒速日命と同一神だと言われています。

どちらも出雲の神様で、蛇(龍)の神様とされています。

隣の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は、ご存知のように(蛇)水の神様です。

火と水が亀によって、力を合わせるという不思議な図柄です。

さて、ここは、これぐらいにして、次に行きましょう。

右の真名井神社へ行きます。

籠神社の前身の神社だそうです。

ちょっと歩かないといけないようです。

やっと着きました。

一の鳥居です。

参道の左右に竹藪が続きます。

雪の重さで、竹がお辞儀をしているみたいです。

 

左右、両方こうです。

近くに川が流れているのか、水の音がします。

今回は、天橋立の波の音といい、水の音ばかりです。

竹と雪の風景も、なかなか良いものです。

 

みなさん、竹というのは、草か木か、どちらと思います?

答えは、草だそうです。

茎が、木のように硬質化するイネ科の植物だそうです。

一日に1メートルも成長するそうで、その生命力は、馬鹿に出来ません。

遠くに何か見えてきました。

着きました。

真名井神社です。

外宮の神様(外国から来た神様)で、水徳の月と呼ばれる「豊受大神」(とようけのおおかみ)を祭っています。

別名、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とも呼ばれます。

 

国之常立神(くにのとこたちのかみ)は亀岡の出雲大神宮の大国主命と同神で蘇我倉山田石川麻呂を象徴し、天智天皇を象徴する饒速日命に娘の遠智娘(おちのいらつめ)を嫁がせて持統天皇(弁財天)を生んだので饒速日命の中心的な存在で、推古天皇の同族であり、イエス・キリストの血を引く内宮の橋渡しをした人物です。

 

遠智娘(おちのいらつめ)は鏡王女(かがみのおおきみ)で、岩戸に隠れた推古天皇(太陽)の代わりに岩戸から出て来た持統天皇(月)の親になり、持統天皇(じとうてんのう)が賀茂別雷大神として上賀茂神社(かみがもじんじゃ)に、遠智娘(おちのいらつめ)が玉依比売命として下鴨神社(しもがもじんじゃ)に祀られています。

子が上で、親が下になっているのは天智天皇の血を引く持統天皇を持ち上げたかったからだと思われます。

天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のモデルである藤原不比等は私は天智天皇の落しだねで、母親は遠智娘だと思っているので、持統天皇の弟になり、亀(玄武)の上に立つ鶴(朱雀)に当たるのだと思います。

恩智神社(おんちじんじゃ)は遠智娘を意味し、遠神(とほかみ)として藤原氏の祖神に当たります。

浦島太郎の亀の恩返しや、鶴の恩返しなど、動物が恩を忘れないお伽噺は、「恩を知るは大悲の本なり、恩を知らざるは畜生より甚だし」の大智度論(だいちどろん)が奈良時代には伝わっていた事が影響しているのだと思います。

大悲観音(だいひかんのん)と、観音菩薩が遠智娘のシンボルという事のようで、当初は、その娘の持統天皇が観音菩薩の涙から生まれた多羅菩薩(たーらぼさつ)で、マグダラのマリアの娘のサラに該当したのだと思います。

 

伊勢神宮の内宮はイエス・キリストの血を宿したマグダラのマリアの象徴で、外宮はカトリックからはマグダラのマリアに取り憑く七つの悪霊と揶揄された聖絶の対象となった救世主を信仰するフェニキア人の船に乗った七福神(七姓漢人)で、カトリックと敵対し、イエス・キリストの血を守る剣となった人々のようです。

日本でも、蘇我倉山田石川麻呂の血を奪い合って争いが絶えなかったので、平安時代の後期に藤原北家によって主要な八氏族に平等に血を分けたのが八咫鏡(やたのかがみ)や、八咫烏(やたがらす)の名前の由来だと私は思います。

 

「真名」(まな)とは、ユダヤ教や、キリスト教の旧約聖書に出てくるマナという食べ物のことです。

モーセ率いるユダヤ人が、飢餓に苦しんだ時に、神様が、与えた食べ物です。

旧約聖書のマナとは、カイガラ虫の甘露ではないかという研究者がいますが、私は違うと思います。

人間は、常に飢餓と戦ってきました。

人間が、飢餓に苦しまなくてもよくなったのは、穀物の発見からです。

腐りにくく、長期間保存がきき、少量でも、栄養があります。

穀物を、蓄えるようになって、人間の暮らしは変わります。

まさに、奇跡の食べ物だったと私は思います。

その穀物神が、豊受大神で、穀物を育てる不思議な水(海水ではなく真水)の出る場所が、ここ真名井神社だということでしょう。

「愛娘」(まな)とかでも使われるように、「真名」は、「愛」でもあり、「生命」そのものと言えそうです。

やっぱり、みんな竹がお辞儀しています。

籠宮(このみや)の古称を吉佐宮(よさのみや)と言いました。

この石碑に掘られた「匏」という漢字は、昔の字で、「よさ」と読むそうです。

他には「ひさご」という「瓢箪」(ひょうたん)の意味もあり、ここの神様が「瓢箪」を持って日本にやって来たそうです。

ユダヤ教の三種の神器の一つが「マナの壷」で中身は「米」(こめ)ですが、キリスト教の聖杯の中身は「イエス・キリストの血」で「葡萄酒」を表しているので、「瓢箪」の中身は、おそらく「米」から造られた「日本酒」で、大酒神社の秦氏を表すと同時に、ユダヤ教、キリスト教の両方の意味を含ませているのかもしれません。

 

「真名」(まな)を表す「米」(こめ)は「米」(よな)とも読みますが、瓢箪山稲荷など、「瓢箪」は瓜(うり)の仲間で、旧約聖書のヨナ書のヨナを灼熱の日差しから守った神の「御加護」(ごかご)の象徴で、ここから旧約聖書がアダムとイブの失楽園の「林檎」(りんご)に対して、新約聖書がイエス・キリストの「瓜」として原始キリスト教(秦氏)のシンボルとなります。

大坂の玉造稲荷神社の黒門市場で黒門越瓜(くろもんしろうり)が売られたり、真桑瓜(まくわうり)が美濃(みのう)で栽培されたりしたようです。

 

美濃は葦(あし)が多く生える湿地帯で、大国主命の居た葦原中国(あしはらなかつくに)と呼ばれ、名張など、大国主命を表す「名」(奈)の「古い屋敷」という意味で「名古屋」(なごや)と呼ばれます。

大国主命の「新しい屋敷」が出雲になり、中国(なかつくに)ではなく太陽が沈む西の「端」(はじ)に移動させられます。

 

「奈」(な)は罪悪感の「罪」の主観に対して、土師氏(はじし)の「恥」(はじ)は羞恥心の客観を表します。

「人は死して名を残す」と言われるように、武士は「名に恥じないように」戦の前に「名乗り」を上げます。

普段は「仮名」(けみょう)を使い、本名は「忌み名」(いみな)と呼び、別名を「真名」(まな)と言います。

 

葦(あし)が神聖な植物とされたのは刀を造る製鉄の原料の渇鉄鋼(かってっこう)が採れたからで、渇鉄鋼の内部に葦の根が残されて、振るとカラカラと音が鳴ったので「錫」(すず)が「鈴」(すず)として持統天皇のシンボルになったようです。

武士の魂である「刀」(かたな)は「片名」(かたな)で持統天皇の「真名」(まな)の相方で天武天皇を表しているのだと思います。

 

因みに「奈良」(なら)の「奈」(な)という漢字は、「林檎」(りんご)という意味で、「林檎が良い」という意味にもなります。

蘇我倉山田石川麻呂の、もう一つの別名でもある大山津見神(おおやまつみのかみ)は「罪」(つみ)は「林檎の神」で、持統天皇の大山咋神(おおやまくいのかみ)は「悔い」(くい)は「瓜の神」だという事のようです。

大黒天(蘇我倉山田石川麻呂)と対をなす恵比寿(えびす)は藤原鎌足を表し、海神(わだつみのかみ)として大山津見神の山(北)に対して海(南)を表します。

 

藤原時平(藤原北家)と源光(光源氏のモデル)によって土師氏(蘇我倉山田石川麻呂を祖とする氏族)の子孫の菅原道真(すがわらみちざね)は九州の太宰府(だざいふ)に左遷(させん)されます。

蘇我倉山田石川麻呂(奈良時代に栄華を極めた橘氏の祖)の一族が八氏族に分けられた事で争いもなくなり、「端」(はじ)に置かれて役割を終えたという事のようです。

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち

 

この岡に 菜摘ます児 家のらせ 名のらさね

 

そらみつ 大和の国は 押しなべて 我こそ居れ

 

敷きなべて 我こそ居れ 我こそば のらめ 家をも名をも

 

                       雄略天皇

 

この歌は、春山入りという七草粥の菜(な)を摘む娘子に求婚をする天皇の歌で、当時の女性は名前は明かさず、結婚する男性にだけ教えるものだったので、名前を聞く事がプロポーズに当たり、生殖は豊年に繋がり、名(な)のりをする事が豊年の予祝の意味が籠められているようです。 

「菜摘み」(なつみ)は「奈罪」(なつみ)で、旧約聖書の意味を蘇我倉山田石川麻呂に被せて、天智天皇の血を引く持統天皇との違いを強調したのだと思います。   

下鴨神社には言社(ことしゃ)と呼ばれる七つの社があり、大国主命の七つの別名が、一言社、二言社、三言社の三つに分けて祀られています。

名(な)は、三言(みこと)=命(みこと)であり、宇迦之御魂(うかのみたま)の御魂(みたま)は、「潮満珠」(しおみつのたま)、「潮干珠」(しおふるのたま)、「真澄珠」(ますみのたま)の三つの珠の宗像三女神を意味するのだと思います。

美濃(三野)は蓑(みの)で笠が蘇我倉山田石川麻呂のイエス・キリストを表すように、蓑は孫の持統天皇のマグダラのマリアを表すようです。

 

宇迦(うか)は食(うけ)と同じ食料を表すようですが、真名井神社の西にある笠水神社(うけみずじんじゃ)のように笠を逆さにして真名井神社の水を受けた聖杯の意味があるようです。

香川県三豊市の宇賀神社(うがじんじゃ)は、元は岡神社と称し、笠縫神(かさぬいのかみ)をお祀りしていたようで、宇賀(うが)も宇迦(うか)と同じ意味を持つようです。

宇迦之御魂(うかのみたま)が宇介之御魂(うけのみたま)では無い理由は、カトリックでは食事をいただく前に「父と子と聖霊の御名によって アーメン」と祈る言葉の「聖霊」が本来は聖母マリアの「母」が入って「父と母と子」となるべきなのに入れられない理由があったからで、その理由が人間(聖母マリア)と神様(イエス・キリスト)とは同列には出来ないというもので、聖母マリアが神の子を身籠った奇跡は「聖霊」と別の言い方をして矛盾を解消したようです。

 

「宇迦」(うか)には「羽化」(うか)という意味が籠められているのだと私は思います。

羽化とは昆虫が幼虫から成虫に変わる言葉ですが、昆虫の中でも特に「蝶」を表しているのだと思います。

「蝶」はマグダラのマリアの象徴で、「青虫」が「人間」を意味し、成虫の「蝶」が「神様」を意味し、イエス・キリストに愛される事によって羽化して「神様」の仲間入りを果たすというのが人間と神様を繋ぐ橋渡しのイメージだったのかもしれません。

 

平家や藤原式家は「子」を意味する持統天皇(弁財天)にばかり目を向けていたので、源氏や藤原北家が、もう一度、「母」にも焦点を当てる為に皇極天皇(お稲荷さん)を中心に添えて、人間と神様が一つになる対立を解脱した統一の「梵我一如」(ぼんがいちにょ)が「父と母と子」の三つの御魂(みたま)の完成形だと示したのだと思います。

 

仙人になる事や、お酒に酔って良い気分になる事を道教では羽化登仙(うかとうせん)と呼ぶので、「火」(父)と「水」(母)の太極図の二つ巴に「風」(子)を加えた三つ巴が日本独自の解釈で、この三つはグルグルと回ってそれぞれの立場を交換する水の流れを表しているようです。

 

母であるマグダラのマリアの「羽化」という言葉にはアゲハ蝶を家紋とする平家への皮肉や、大きな鯨(くじら)ばかりを見て、もっとも小さくて弱い魚である鰯(いわし)を見ない式家(秦氏)への皮肉として「石清水」(いわしみず)=「鰯見ず」(いわしみず)の意味を籠めたのだと思います。

蚕(かいこ)の繭(まゆ)
蚕(かいこ)の繭(まゆ)

小さきもの弱きものを重要視するイエス・キリストの愛を根底に見据えて、秦氏が蚕(かいこ)を繭(まゆ)の状態で茹でて絹を採りだすので、「羽化」をさせていないという皮肉もあるかもしれません。

籠神社(このじんじゃ)の籠(こも)るという意味も、繭(まゆ)を表している可能性もありそうですが、竹冠に龍という漢字は竹を表す天武天皇の中に隠れていた天智天皇の龍の意味もありそうです。

 

石上神宮など、物部氏と百済の友情を重視した平家は「石」がシンボルとなり、そこに新羅を加えた源氏は「木」がシンボルとなって、「水」を境に浮くか沈むかで、あの世とこの世を分けたようです。

真名井神社の「水」が境界線のようです。

 

平家は岩船に乗って壇ノ浦で水の底の竜宮城へと沈む結果となります。

源氏は貴船(木船)に乗って浮かぶ事が出来たという事です。

籠神社の籠(こ)も木(こ)と同じく舟を表しているようですが、籠(かご)は穴が空いているから、饒速日命(にぎはやひのみこと)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の乗っている舟の行き先は水の底の竜宮城だと言いたいのかもしれません。

 

親は先にあの世に行くので死(北)を表し、子はこの世の生(南)を表し、子もいずれは老いて生死は繰り返すので、どちらも大して違いはなく、ただ、饒速日命と市杵島姫命が子の親だと示したかったのだと思います。

 

匏(ひさご)も茨田衫子(まむたのころものこ)で登場する舟で、秦氏の氏神を祀る大酒神社の酒も、酒が中身のイエス・キリストで、匏は外側のマグダラのマリアで、聖杯を意味します。

茨田氏は彦八井耳命の子孫で、八氏族に血が分けられる以前には推古天皇と同族となった貴重な蘇我倉山田石川麻呂の子孫だったのかもしれません。

笠、蓑に対する足を表す草鞋(わらじ)は、イエス・キリストの子孫を意味していて、仁王門に飾られる事が多く、足は二本あるので、平家(東)と源氏(西)を意味するのかもしれません。

 

源氏の中でも足利家が名門とされたのも、平家と同じく桓武平氏の系統の北条氏と深い婚姻関係があったからだと思います。

東西両方の系統だという訳です。

 

笠(イエス・キリスト)、蓑(マグダラのマリア)、草鞋(サラ)の三つが三つ巴紋の火(イエス・キリスト)、水(マグダラのマリア)、風(サラ)と同じ構図になります。

 

牽牛(けんぎゅう)である但馬(イエス・キリスト)、織姫(おりひめ)である丹波(マグダラのマリア)、そして鵲(かささぎ)である丹後(サラ)のように丹後は子(こ)を表していて、新羅の朴(ぱく)、昔(そく)、金(こん)の三つの王族を束ねた神功皇后(じんぐうこうごう)を象徴する土地で、持統天皇に代わって皇極天皇が神功皇后の役割を担うようになったのだと思います。

 

源氏の時代になって、平家が信仰した弁財天ではなく、荼枳尼天(お稲荷さん)が宗像三女神の中心になったので、弁財天は宇賀弁財天(うがべんざいてん)として「子」と「母」が同等、同格としてお稲荷さんと習合する形になったようです。

 

聖徳太子の「母」の間人皇后(はしひとこうごう)が物部氏と蘇我氏の争いを嫌って丹後に逃げて来たという逸話も秦氏を表していて、「母」の皇極天皇(斉明天皇)に焦点を充てたい藤原北家の意図がくみ取れます。

この丹後という土地は、その中心地になるようです。

いよいよ第二の鳥居です。

 

古事記や、日本書紀に出てくる「天の真名井原の誓約」とは、ここのことです。

太陽神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と、嵐の神「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が誓約をして、5男神と3女神の8神が生まれたところとされます。

 

元々は天照大神は持統天皇、素戔嗚尊は天武天皇を表していたのですが、藤原式家が天武天皇を排除しようとしたので、天武天皇と婚姻関係を結んで切っても切れない関係となっていた藤原北家が誓約という形で天武天皇を排除させなかったのだと思います。

 

龍と係わりの深い市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)別名「弁財天」は、この時に誕生した事となり、「母」から「子」に役割を移されたようです。

 

シュメール神話(現在のイラク、クウェートのある場所で、ペルシア帝国に併合された初期のメソポタミア文明が栄えた地域の神話)や、エジプト神話でも、太陽神と嵐の神の仲介をするのは、月(智恵)の神様だとされます。

狛龍です。

龍が、豊受大神(とようけのおおかみ)の使いだそうです。

豊受大神の子供の弁天さんが、ここを守っているのかもしれません。

弁天さんは、シュメール神話では、「イシュタル」と言う神様で、「ムシュフシュ」という龍に乗っているそうです。

 

また、ギリシャでは、「ヴィーナス」とも呼ばれ、愛(まな)と美の神様とされます。

「ヴィーナス」には「キューピッド」という息子がいて「聖母マリア」と「イエス・キリスト」の母子と対比され、「キューピッド」には「プシュケー」と呼ばれる蝶の恋人がいて、こちらがマグダラのマリアが当てられています。

子が「アテナ」、妻が「アルテミス」、母が「ヴィーナス」と役割が分けられていますが、元々は全てマグダラのマリアを表していたのだと思います。

 

現在、我々が知っているギリシャ神話はカトリックの影響を受けたもので、アテナは父であるゼウスの頭をかち割って生まれて来て、アルテミスは処女で男嫌い、ヴィーナスは裸で男を誘惑する性欲の象徴と、どれも無茶苦茶な男性の物語を持つ女神達です。

 

男性と関係を持って娘を産んだカリスト―がアルテミスの逆鱗に触れて熊の母娘に変えられてしまったという神話は、そのままイエス・キリストと関係を持って娘を産んだマグダラのマリアと同じ意味を持ち、処女神アルテミスの本当の姿なのだと思います。

神話では天空の神のゼウスがカリスト―母娘を不憫に思って天に上げたのが大熊座と小熊座になったとされます。

 

小熊座の尻尾の先にあるのが北極星で、伊勢神宮の内宮になり、大熊座の尻尾の先にあるのが北斗七星で、伊勢神宮の外宮になり、熊野三山の薬師如来(イエス・キリスト)、阿弥陀如来(聖母マリア、本当は使徒トマス)、観音菩薩(マグダラのマリア)の中心的な信仰対象になります。

マグダラのマリアを守った航海の民であるフェニキア人が方角を知るのに北極星が重要だった事からより、神格化が進んだものと想像出来ます。

日本人が皇室と北極星(亀)、北斗七星(蛇)の玄武(げんぶ)を結び付けて北を崇拝の対象としたのも、性は清浄だとする理趣経(りしゅきょう)の密教も、大熊座、小熊座が関係していたからだと思います。

本来は「アルテミス」は月で、イエス・キリストの太陽を表す「アポロン」の妻だったのだと思います。

 

伊勢神宮の外宮は娘を見守る母ですが、籠(子)の意味も隠されているのだと思います。

 

お稲荷さんの別名である末廣大明神(すえひろだいみょうじん)は子孫繁栄として木の根や幹ではなく葉の「千葉」を意味するようです。

葉に隠れる大国主命の狸や、豊受大神の狐は、共に紀橡姫(きのとちひめ)の子孫である事を意味するようです。

イシュタルの神話は、「ギルガメッシュ叙事詩」と、「冥界下り」の神話が有名です。

「冥界下り」の神話では、イシュタルが死んだ為に人々が愛し合わなくなり子孫が途絶え、植物は花も咲かせず実もつけず、動物も絶滅して、困り果てた、天神エア (ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の最高神で淡水の神様)が、月神シンと相談してイシュタルに「生命の水」を振り掛けて蘇らせるという物語です。

ギリシャ神話のデメテルと、ペルセポネーの話とも似ています。

鳥居をくぐる前のところに、この「真名井の水」(生命の水)があります。

この神社には、「豊受大神のお顔は、藤の花で、そのみたまは天の真名井の水」という秘伝があるそうです。

藤原氏の「藤」は、ここから取られた名前だと思います。

それから、藤(不死)の蔓(つる)は、竹と同じ、籠の材料にもなります。


こちらは、波せき地蔵さんと言うらしく、ここを守っているそうです。

それでは、鳥居を抜けて、階段を登ってみましょう。

本殿です。

シンプルですが、木に苔がむしていて、木漏れ日に照らされて、なんだか神々しい感じです。

日本人の主食であるお米は、「籠める」という言葉から来ているそうです。

太陽の「光」(火)と、生命の源である「水」を、人々の祈りと共に、一粒に籠めて、奇跡のお米は作られます。

だから、「米」という字は、火と水が組み合わさった字なのです。

この本殿では、狛龍ではなく、狛犬でした。

花菱紋
花菱紋

こちらは伊勢神宮の神紋の「花菱」(はなびし)です。

「唐花」(からばな)と呼ばれる五弁の花紋に似たデザインなのですが四弁の花で、形が「隅立て」(すみたて)と呼ばれる菱形なので「花菱」と呼ばれます。

伊勢神宮という皇室にとって最も格が高い神社の神紋なのに、この花が何の花なのかを説明した言い伝えや記録もなく、謎の神紋になっています。

「蔓草」(つるくさ)のデザインの「唐草模様」(からくさもよう)や、「真桑瓜」(まくわうり)や「胡瓜」(きゅうり)の古名を「唐瓜」(からうり)と呼んだので、元々は「蔓草」の「瓜」の五弁の花が「唐花」の基本なのだと思います。

 

じゃあ、何故、伊勢神宮の神紋に四弁の花を選んだのか?

 

おそらく、これは「真菜」(まな)の花だと私は思います。

「真菜」と言っても、現在の大和野菜の「真菜」だけを表すのではなく、アブラナ科アブラナ属の総称である「菜の花」(なのはな)が本来の「真菜」の意味で、白菜も、小松菜も、大根も、蕪も、みんな「真菜」だったのだと思います。

 

「菘菜」(あおな)とも呼ばれますが、こちらは春の七草の六番目の植物である「菘」(すずな)、つまり「蕪」(かぶ)の事で、天照大神の意味を持っていた持統天皇に「亀」の意味を持つ「亀甲紋」(六角形)を加えた形とよく似ていて、持統天皇に七ではなく六の意味を充てたのだと思います。

 

春の七草の七番目は「すずしろ」で「大根」になり、皇極天皇を表す「聖天」のシンボルになります。

「聖護院大根」(しょうごいんだいこん)は見た目は「蕪」のように丸いのですが「大根」で、皇極天皇をシンボルとする天台宗の聖護院が、浄土宗の金戒光明寺が持統天皇を表す尾張(おわり)から奉納された宮重大根(みやしげだいこん)という品種の長大根を譲り受けたものだそうです。

 

「長」は長尾神社など持統天皇を表す言葉で天智天皇の大神神社(おおみわじんじゃ)を「頭」に見立てて長尾神社が「蛇」の「尾」を表しているとして天智天皇の「子」を意味していましたが、蘇我倉山田石川麻呂を表す「亀」の「孫」という意味で、「長大根」を丸く「蕪」に似せて品種改良したのが聖護院大根なのだと思います。

 

音を鳴らす鏑矢(かぶらや)も「鈴」の「蕪」という意味があり、聖護院大根は持統天皇(蕪)とよく似た皇極天皇(大根)という意味になりそうです。

 

私達がスーパーで見かける大根は「青首大根」という品種で、これも宮重大根から品種改良されて作られた大根だそうです。

 

京都には「聖護院大根」以外にも「時無大根」(ときなしだいこん)「茎大根」(くきだいこん)「佐波賀大根」(さばがだいこん)「辛味大根」(からみだいこん)「桃山大根」(ももやまだいこん)「青味大根」(あおみだいこん)と全部で七つの有名な大根があります。

 

源頼朝(みなもとよりとも)に平家を倒すように挙兵せよと夢枕に現れたという佐助稲荷(さすけいなり)も大根と関わりが深く、魚売りの源十郎が犬から追われていた狐を助けると、そのお礼に魚ではなく大根を売る事を勧められて、言われるがまま源十郎が大根を育てて売るようになると町に疫病が流行り、源十郎の売っていた大根を食べた患者が病気が治って噂が広がり大金持ちになり、狐を祀ったのが佐助稲荷だと言われます。

 

佐助には源頼朝を助けた三人の桓武平氏の子孫の上総介(かずさのすけ)、三浦介(みうらのすけ)、千葉介(ちばのすけ)の三介の意味もあるようです。

 

佐助に退治されて殺生石という石となる「玉藻前」(たまものまえ)と呼ばれる「九尾の狐」は保元、平治の乱を引き起こした藤原得子(ふじわらとくし)がモデルだとされますが、佐助稲荷の表す「三」や、安倍晴明の母である「葛の葉」(くずのは)が陰陽五行の五芒星や、五穀豊穣、吉原神社の五つの稲荷神社など「五」の意味が強い事から、「五」が皇極天皇、「三」が持統天皇の意味にして、「九」は「九頭龍大神」として「九尾の狐」の尾(西)=源氏と頭(東)=平家が逆さまになった事を表しているのかもしれません。

 

源十郎が売っていた大根は「鎌倉大根」と呼ばれ、DNAを調べたら浜辺に生息する野生の「浜大根」がルーツだと分かり、従来の大根に比べて辛味成分が強くイソチオシアネートを多く含むので、殺菌作用が強く、抗癌作用などもあり、病気に効く大根だというのは、あながち間違いではなかったのかもしれません。

 

外宮が表す「花菱」は食料として奈良時代から食べられていた「真菜」で、内宮が表す「花菱」は平安時代から伊勢の桑名で栽培されていた菜種油(なたねあぶら)を採る目的の「油菜」(あぶらな)を指すのだと思います。

 

黄色い四弁の花から「十字花植物」と呼ばれ、太陽神の象徴である「火」を灯す「油」がシンボルとして選ばれたのだと思います。

 

ただ、選んだのは藤原式家や平家達で、藤原北家と源氏が、そこに外宮をプラスして「水」や「食料」の意味を強めたので、「火」と「水」の両方の意味を持つ「気」(風)へとシフトさせたのが理由だと思います。

 

大山崎の油座は「荏胡麻」(えごま)、大阪の遠里小野(おりおの)は「榛」(はしばみ)、福岡の七熊の油山は「椿」(つばき)で油を搾油していましたが、伝説では遣唐使(けんとうし)で持ち帰った油菜の「菜子」を福岡の七熊の油山に植えて栽培したのが「菜種油」の始まりだったようで、「唐花」には「遣唐使の花」の意味も隠されているのかもしれません。

しかし、織田信長の楽市楽座の影響で「菜種油」が復活し、江戸時代には日本各地で「油菜」が栽培されるようになったようです。

 

因みに「七草なずな」と呼ばれる七草の二番目の「薺」(なづな)は「ぺんぺん草」の異名を持つアブラナ科の「蔓草」(つるくさ)になります。

「二月の初午(はつうま)」はお稲荷さんの日とされ、「荷」(に)が「二」(に)に通じるからか「瓜」の特徴である「蔓」(つる)に似せる為に「薺」が二番目に選ばれたのだと思います。

「二月」の古名である「如月」(きさらぎ)は衣服を着替える「衣更着」(きさらぎ)で「二律背反」(にりつはいはん)を統合する「一如」(いちにょ)、つまり、「無分別智」(むぶんべつち)を悟った「如来の月」(にょらいのつき)という意味です。

 

「七」は伊勢神宮の内宮である北極星を守る外宮の北斗七星の「七」で、マグダラのマリアを守る七つの民を乗せたフェニキア人の舟です。

ヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の七つの民で、日本の七姓漢人がこれに当たるのだと思います。

旧約聖書のヨナ書に記された異民族から救うとされた救世主を信じた人々で、シルクロードを通じて胡瓜を齎したペルシアからの渡来人です。

 

陰陽道(おんみょうどう)の「有卦」(うけ)に七つ「ふ」が付くものを集めると縁起が良いという風習も、「ふ」が「福」(服)に通じるからで、「笠」や「蓑」と同じく、災いから身を守ってくれる「御加護」(ごかご)を意味するようです。

七十二候(しちじゅうにこう)の「菜虫化蝶」(なむしかちょう)は「菜の花」を食料とする「紋白蝶」(もんしろちょう)が「羽化」して「蝶」になる「春」の季節の到来を表します。

 

「死」(四)を超越した「火の鳥」(鳳凰)の「復活」のシンボルで、イエス・キリストの「死」のシンボルである「十字架」が伊勢神宮の「菱形」(金剛石)の中に隠されているという事だと私は思います。

 

古いものを壊して新しいものを造る「遷宮」(せんぐう)は親から子へと世代交代する「復活」(羽化)で、「父と子と母」は「ひふみ」(火風水)として永遠に続いていくという祈りの意味があるのかもしれません。

 

「子は母であり、母は子である」

 

これが「宇気之御魂」(うけのみたま)ではなく「宇迦之御魂」(うかのみたま)の意味なのだと思います。

 

稲荷(いなり)の名前の由来は弘法大使(こうぼうたいし)空海(くうかい)が東寺の南門で「稲を荷(に)なう」翁(おきな)の神様と出会った事からつけられた名前だと言われます。

 

「荷」(か)は「蓮荷」(れんか)という「蓮の葉」(はすのは)を意味し、仏教の行事の盂蘭盆会(うらぼんえ)ではお供え物を「蓮の葉」の上に置いて、聖杯である「皿」(さら)の意味を持ちます。

 

「蓮の葉」に落ちた水滴は「蓮の葉」が分泌するワックス成分によって丸まり、表面の凸凹した形状によって汚れと共に流れ落ちる仕組みになっていて、ロータス効果と呼ばれる自浄作用を持ちます。

 

泥の中にあっても汚れない植物だとして、「蓮」(はす)はインド神話では不老不死のアムリタ(酒)と共に生まれたとされ、赤い蓮はラクシュミー(吉祥天)、白い蓮はサラスヴァティー(弁財天)、青い蓮(スイレン)はヴィシュヌ(毘沙門天)のシンボルにもなります。

 

中国では「蓮葉飯」(はすのはめし)と言って、「もち米」を「蓮の葉」で包んで仏前に供え、これが「笹の葉」で「もち米」を包む「粽」(ちまき)のルーツとなります。

 

浮気性で男性をころころと変える女性を悪い意味で「蓮葉女」(はすのはおんな)と言ったようですが、中身を変えるという意味で、「荷」(か)は「化」(か)と同じ意味があるのかもしれません。

「稲荷」にこの字を充てたのは「中身」である「花」よりも「器」である「葉」に注目したからだと思います。

 

神イエス・キリストではなく、人間マグダラのマリア、あるいは聖母マリアです。

「桑名」(くわな)は「桑菜」(くわな)で蚕の餌となる「桑の葉」を意味するのだと思います。

 

「8月」は昔は「葉月」(はづき)と呼んで、「葉」が生い茂る「夏」を表しましたが、桑名では「姫瓜」(ひめうり)を顔に、「竹筒」を胴に見立てたコケシのような雛人形を祀る「姫瓜の節句」(ひめうりのせっく)が行われたようです。

 

「姫瓜」は遠里小野(おりおの)が産地の実が直径6センチ程の小さな真桑瓜(まくわうり)の品種で、黄色く熟して生食出来て、大きさと色から蜜柑瓜(みかんうり)とも呼ばれます。

瓜から生まれた「瓜姫」が「天邪鬼」(あまのじゃく)に殺されて入れ替わられる瓜姫物語なども知られています。

 

遠里小野(とほさとをの)は瓜生野(うりゅうの)とも書かれ、住之江が昔は「那古」(なご)と呼ばれる海で、そこから「呉織」(くれは)と「漢織」(あやは)の二人の「織姫」(おりひめ)が渡来して織物を広めた事から、「瓜姫」は「織物」が得意だったという逸話も、「瓜」(うり)と「織」(おり)を結び付ける為の物語なのだと分かります。

 

「姫瓜」は別名を「雀瓜」(すずめうり)とも呼ばれますが、桑名で「蛤」(はまぐり)が有名なのは、中国の儒教の書物の礼記(らいき)の月令(げつれい)で、「雉」(きじ)や「雀」(すずめ)が水に入ると「大蛤」と「小蛤」になるという言い伝えから、二つを統合する縁起物として婚礼や桃の節句に用いられるようになったのだと思います。

 

「天邪鬼」と「瓜姫」になぞらえて、赤貝の「キサガイヒメ」と蛤(白貝)の「ウムギヒメ」が火傷で死にかけた大国主命を、蛤の出す汁に赤貝の殻を削った粉を混ぜた「母の乳汁」(おものちしる)を塗って助ける神話も、子(赤)が母(白)に吸収される事を暗示しているのかもしれません。

「丹波」は福知山の平織りと綾部の綾織りと「衣」を表し、「丹後」は海に接する事から海産物の「食」を表し、「但馬」は土地の80%が森で、家の材料となる木が採れる事から「住」を表したのだと思います。

 

「御食国」(みけつのくに)も「淡路」、「伊勢」、「若狭」と海幸ばかりにスポットが当たりますが、昔は「丹波」は「丹後」も「但馬」も含む一つの国で、但馬で採れる丹波「栗」が山幸で、丹後で捕れる海産物が海幸、「丹波」「丹後」「但馬」を貫く由良川を泳ぐ鮎や川の水で育てた穀物や野菜が川幸で、山幸、海幸、川幸の全てを含む土地の「丹波」が本当の「御食の国」だったのだと思います。

 

栗は天武天皇のシンボルで、皇極天皇を表す馬の餌の「橡」(とち)の実は「馬栗」、持統天皇を表す鴨の餌の「菱」(ひし)の実は「水栗」と、どちらも栗という名前が付いています。

 

宗像三女神の神紋の楢(なら)や、神武天皇の樫(かし)などはイエス・キリストの血と言われた葡萄酒の器である樽(たる)の材料ですが「団栗」(どんぐり)の木で栗の仲間になります。

 

西洋ではコルシカ島が栗の産地で、傾斜のある土地で小麦が栽培出来なかったので、栗からパンを作っていたので、貧しき人のパンの木とされ、イエス・キリストの肉の木とも言えそうです。

 

桃の節句の「菱餅」(ひしもち)に春の七草の三番目の「御形」(ごぎょう)、つまり、別名の「母子草」(ははこぐさ)を練りこんだ餅を使用するのですが、一段目と三段目が「母子草」の餅で、間に「菱の実」(ひしのみ)を練りこんだ白餅を挟むのが元々の形になるそうです。

現在はピンク、白、緑の三色で、「クチナシ」、「菱」、「ヨモギ」と使用されています。

 

江戸時代に「母子草」を餅に入れる為に杵で搗くのは親不孝だとして代わりに「ヨモギ」を使用したり、一段目に「クチナシ」でピンクを加えて、現在の三色になったようです。

 

「母子草」の名前の由来は黄色い花を白い軟毛が包んでいる姿が母が子を抱いているようだとされ、黄色が天武天皇、白が皇極天皇の意味があったので、そこに「菱」を加える事で、皇極天皇と天武天皇の母子の間に持統天皇を入れる意味があったのだと思います。

 

「栗」(くり)は古語で「石」(くり)の意味があるようです。

聖護院大根
聖護院大根

大根がお稲荷さんのシンボルとして持ち出されたのは高麗人参(こうらいにんじん)が念頭にあったからではないかと私は思います。

薬草をお正月に食べる春の七草という行事を考えると、少彦名神が漢方薬の祖である炎帝神農(えんていしんのう)と同一視された事から見ても、漢方の王様と言われる高麗人参を意識しないはずはないと私は思います。

高麗人参は奈良時代に聖武天皇へ新羅の王様から贈られたとされるのが最古の記録とされます。

名前の通り高句麗(こうくり)で採れる植物で、栽培環境が難しく、中国でも吉林省の長白山と生産地が限られています。

日本では現在、長野県、福島県、島根県で栽培されていますが、昔の庶民にとっては高額で手の届かない存在だったのだと思います。

 

現在、我々の知っている人参は春の七草の一番目のセリ科の植物になりますが、高麗人参はウコギ科で低木の仲間で中国では五加(うこ)と呼びます。

宇迦之御魂の宇迦(うか)には五加(うか)の意味もあるのかもしれません。

そう思う理由は、「二つ巴」から「三つ巴」に変わる三つ目の氏族に高句麗の渡来系氏族が選ばれたと仮定すると、新羅(秦氏)、百済(物部氏)、高句麗(蘇我氏)と天照大神、月読命、素戔嗚尊の関係がスムーズに出来上がるからです。

 

高句麗と百済は唐と新羅の連合軍に滅ぼされて日本に移民が沢山逃げて来ていて、奈良時代に勾玉の聖地である埼玉県の日高市に高句麗の移民を住まわせて、当時の日本人は彼らを「高麗人」(こまひと)と呼んだそうです。

 

私は小野小町(おののこまち)は架空の人物だと思っているのですが、九十九回プロポーズしたとされる深草少将(ふかくさしょうしょう)と共に持統天皇(じとうてんのう)と天武天皇(てんむてんのう)をモデルにしているのだと思っています。

 

その小野小町の小野氏が山城で狛氏(こまし)を名乗り、高句麗の氏族とされている事にも、秦氏と物部氏の間に高句麗を蘇我氏の代わりに置いたのだと思います。

蘇民将来(そみんしょうらい)は秦氏ではなく、蘇我氏が繁栄するという事のようです。

 

聖徳太子の息子の山背大兄王は天武天皇、聖徳太子の娘の片岡女王は持統天皇を表していて、片岡氏の家紋が「三つ巴」で聖徳太子の一族の中で唯一生き残った可能性があると言われている人物です。

 

片岡氏は藤原南家と中臣氏の両方の系統がありますが、中身は蘇我倉山田石川麻呂の阿倍御主(あべのみうし)の血が濃い天武天皇、持統天皇の末裔なのだと思います。

 

平安時代後期から室町時代前期までの歴史物語に、「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」の「四鏡」(しきょう)と呼ばれるものがありますが、成立年代順に並べて「大今水増」(大根水増し)と呼ばれます。

 

このうち「水鏡」は神武天皇から仁明天皇までの古代をメインに、藤原式家の藤原百川(ふじわらももかわ)がキングメーカーとしてスポットが当てられる内容となっています。

 

藤原式家から再び政権を取り戻した藤原北家は、藤原京家と藤原式家を統合する形で藤原南家を置き、そのシンボルを藤原南家の恵美押勝(えみのおしかつ)の「恵美」(えみ)を恵美寿(えびす)の「三つ巴」として「笑み」の狂言や、アブラナ科の「壬生菜」(みぶな)で、「水」を表したようです。

 

「とほかみえみため」の言霊の「えみ」も「笑み」であり、三種の神器に水増しされた海神(わたつみのかみ)の「恵水」(えみ)に当たるようです。

 

聖天さんで1月7日などに「水」で炊いた「ふろふき大根」を供えるのも「大根水増し」が根底にあるからだと思います。

 

鎌倉幕府の北条氏が江の島の弁財天から貰ったというミツウロコを家紋にしていますが、図案の三つの黒い三角形を三角に並べた中央に出来る白い「逆さ三角形」が「聖杯」であり、「水」を表しているのだと思います。

 

源頼朝(みなもとのよりとも)の母は由良御前(ゆらごぜん)で、三種の神器の「剣」を祀る熱田神宮の宮司の娘で、「剣」が「水」(海)に沈む象徴でもあるようです。

 

曹洞宗のお寺で小野小町が建てたとされる小野山の妙性寺(みょうしょうじ)では五十河(いかが)という地名が元は五十日(いかか)と呼ばれていたのが、火事が絶えなかった事から小野小町が「日」(か)は「火」に通じる漢字なので「水」の「河」(が)に変える事を進言し、火事が収まったそうです。


おそらく、平家が持統天皇を天照大神として「火」にしていたのを、源氏が「三つ巴」の「水」にした事を表しているのだと思います。

 

天橋立の股のぞきも、小野小町が丹後に来た時に小便をしようと着物をまくり上げて股の間から見えた景色が始まりだとされていて、普通に見た景色が昇りの平家で、逆さまに見た景色が降りの源氏なのだと思います。

 

お稲荷さんの親が和久産巣日神(わくむすびのかみ)で伊弉冉命(いざなみのみこと)の小便から生まれたとされますが、大便から蘇我倉山田石川麻呂の埴安神(はにやすのかみ)とゲロから天武天皇の金山神(かなやまのかみ)なども生まれていて、汚いものを何で神様にしたのかと疑問に思いますが、越前、美濃、加賀の三つの入口がそれに対応していて、頂上の白山の菊理姫(きくりひめ)が高句麗姫(こうくりひめ)で、穢れを取り払った持統天皇の新しい姿なのだと思います。

 

御手洗団子(みたらしだんご)の「御手洗」(みたらし)は五体の身体に魂の「水」(三)を垂らすという意味で、後醍醐天皇が発案者だと言われます。

 

後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、公家が中心の社会を築こうとして足利尊氏と決裂して南北朝時代に突入する南朝の天皇になります。

 

鎌倉幕府を倒そうと承久の乱を起こして失敗した後鳥羽上皇が好んで使用していた菊紋を後醍醐天皇は引き継ぎ、足利尊氏に桐紋を下贈したので、「菊」が公家、「桐」が武家として、そのまま内宮「菊」、外宮「桐」のイメージと重なるようになります。

 

「菊水」は後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くした楠木正成(くすのきまさしげ)のシンボルで、不老不死の橘氏の末裔になります。

 

穢れを落とす禊(みそぎ)の下鴨神社で、御手洗団子の醬油の甘タレは汚物をイメージして作られた黒のイメージなのかもしれません。

 

和歌山県の由良(ゆら)にある臨済宗(りんざいしゅう)の興国寺(こうこくじ)の覚心(かくしん)に法燈国師(ほっとうこくし)の名を贈ったのが後醍醐天皇で、覚心は宋から金山寺味噌の製法を学んで持ち帰り、その製造過程で出る水分の「溜まり醤油」(たまりしょうゆ)がカビの原因になると最初は捨てていたのですが、なめてみると旨みがあり利用価値がある事に気が付いたのが我が国の醬油(しょうゆ)文化の始まりだとされます。

 

つまり、汚水が万能調味料に変わった瞬間でした。

 

お手洗いの「手」の意味は、おそらく、勝手明神(かってみょうじん)である天武天皇と、埼玉県の手白神社(てじろじんじゃ)で祀られる手白香姫(たしらかひめ)で、持統天皇を表しているものだと思われます。

 

最終的には、母の病を治そうと春の七草の芹(せり)を摘んでいた膳夫姫(かしわでひめ)が聖徳太子に見初められて妃となり、奈良時代には天皇の食事を用意する専属料理人として膳夫氏が選ばれるようになりますが、平安時代以降は藤原南家の高橋氏が料理の神様の氏族として膳夫氏に置き換わっていったようです。

 

「膳夫」は食料を乗せる器である「木の葉」を意味すると言われます。

天武天皇を意味する諏訪大社の「梶の葉」(かじのは)で、七夕に願い事を書いた「文字」の器である「紙」に当たります。

 

手は「文字」を書く為の重要な部位で、フェニキア人が「文字」を世界に広めてアルファベットが生まれます。

 

後醍醐天皇に最後まで忠誠を誓った楠木正成が神戸の湊川で足利尊氏の軍に敗れて戦死した後、嫡男の楠木正行(くすのきまさつら)と実弟の正時(まさとき)も大阪の四条畷(しじょうなわて)で足利尊氏の側近の高師直(こうのもろなお)に敗れて南朝の敗北が決定しました。

 

この四条畷という地名は条里制(じょうりせい)の土地区分からくる言葉ですが、後醍醐天皇に仕えた鳥取県の長綱寺(ちょうこうじ)の伯耆守(ほうきのかみ)名和長年(なわながとし)、楠木正成(くすのきまさしげ)、結城親光(ゆうきちかみつ)、千種忠顕(ちくさただあき)の「ホウキ」「クスノキ」「ユウキ」「チクサ」の「三木一草」(さんぼくいっそう)の四条を縄(なわ)で繋いだ手(て)という意味が含まれていたようです。

 

しかし、「縄手」(畷)は、室町時代には京都の処刑場である三条大橋から四条の八坂神社までの鴨川の土手を繩手通りと呼び、罪人が手に縄を掛けられて歩かされる敗北の象徴となり、八坂神社の祇園祭で長刀桙(なぎなたほこ)のお稚児さんが四条に張られた縄を切る「しめ縄切り」の行事は素戔嗚尊(蘇民将来)によって「手」が再び自由になる戦国時代の象徴と言えそうです。

 

藤原北家の魚名流の四条家が包丁式の家筋とされるのも、四条が十字架を意味し、剣(包丁)の意味も加えられたからだと思います。

寿命を表す因果(いんが)の縦の線と、赤の他人が愛し合う縁(えん)の横の線を結ぶ十字架の絆が縄手で、「相生(あいおい)の松」(愛老の松)が生まれます。

 

後醍醐天皇の「縄かけの松」です。

 

お稲荷さんの事を飯綱権現(いいずなごんげん)と呼ぶのは武士達が戦場で食料とした味噌を吸わせた「芋がら縄」(いもがらなわ)が根底にあるのだと思います。

 

「芋がら縄」を切って水で炊くと味噌汁になるので、縄が手を拘束する道具から、武士達の命を守る食料に変わったようです。

 

おそらく、白山信仰のゲロが豆乳や豆腐、小便が醤油、大便が味噌と、全てが大豆から造られる食品なのも、小豆が持統天皇で仏前に供える牡丹餅やおはぎに使用されるのに対して、大豆が天武天皇を意味し、秦氏を鬼として払う節分の大豆の豆まきなど、再び天武天皇を持ちあげたい藤原北家の意図が反映されたのだと思います。

 

「芋がら縄」の原料は里芋の茎の「芋茎」(ずいき)ですが、聖徳太子が遣隋使で小野妹子を遣わして持ち帰ったのが里芋で、妹子の妹(いも)は里芋の芋(いも)の意味があるようで、聖徳太子の好物だったとも言われます。

 

白山産地や、罪人の流刑地だった五箇山で造られる堅豆腐(かたどうふ)は別名を、平家豆腐、石豆腐、縄豆腐と呼びますが、これらも鎌倉時代や室町時代の名残りなのかもしれません。

 

豆乳から生まれる湯葉(ゆば)は、にがりを入れて固める堅豆腐の太極にある食品ですが、見た目は老婆のシワ(四和)に例えられて美しいものではないのですが、栄養価が高く、健康に良い精進料理として、昔は公家や寺院にだけ許された特別な高級食材で、京都を代表する食文化とも言えます。

皇室と深い関わりのある南禅寺一帯が湯葉料理を提供する地域としても有名です。

 

黒は玄武で蘇我倉山田石川麻呂になり、菅原道真が子孫になります。

葦原中国(あしはらなかつくに)の「葦」(あし)は「菅」(すげ)とともにパピルスなどの「紙」の原料を意味しますが、藤原北家によって「足」(あし)の意味が加えられたのだと思います。

 

「足」は「乗り物」であり、聖徳太子の馬である「黒駒」(くろこま)で、八咫烏(やたがらす)と呼ばれます。

 

鞍馬山の烏天狗で、毘沙門天の乗り物の迦楼羅天(かるらてん)です。

橘氏も蘇我倉山田石川麻呂の末裔で、仁明天皇に繋がります。

 

白山信仰の雪は、そういった汚れを覆い隠す白のイメージなのだと思います。

 

白髭明神は藤原鎌足、菊理姫は持統天皇で、白は白虎で天武天皇になり、白龍大神として皇極天皇が加わり、黒が負け星で白が勝ち星となります。

汚いものに嫌悪を抱く感情は、衛生的に考えても健康を維持する為には当然の事なのですが、完全に世界から排除する事が難しい事と、仮にそれが出来たとしても、本当に善なのかを考えると一筋縄ではいかない気がします。

汚物でも微生物や菌類の餌となり、植物の栄養となり、回りまわって人間の食糧となります。

日本神話のオオゲツヒメは汚物を食料として提供しようとして殺されて、その死骸から五穀が生まれたとなっています。

 

三馬場(さんばば)など、不浄と思う心が不浄だというのが、わびさびを重要視する禅(ぜん)の意味なのかもしれません。

 

そういう意味で、菊理姫は禅の頂点になるようです。

 

後醍醐天皇は夢窓疎石(むそうそせき)を上洛させ、南禅寺の住職とされました。

夢窓疎石は伊賀(東)と甲賀(西)の間の御斎峠(おとぎとうげ)の名付け親で、「斎」(食料)を意味するお坊さんです。

北條鱗紋
北條鱗紋

小野小町は「栗」(おのの)の「高麗」(こま)を知る智恵の「智」(ち)で、「栗狛智」(おののこまち)となります。

「栗」のトゲを見ると馬が慄(おのの)くというところから「栗」(おのの)くと読まれます。

おそらく、恩智神社(おんちじんじゃ)の恩智(おんち)のパロディなのだと思います。

 

奈良時代に天武天皇の氏族と婚姻関係を結んだ藤原北家にとっては、天武天皇を担ぐ事が親への恩に報いる事になるからです。

 

「高麗」は「狛犬」(こまいぬ)の元祖で、平家、源氏の「東西」を意味し、「栗」(くり)は「楢」(なら)、「樫」(かし)を含む「聖杯」の木で、菊理姫の「菊水」がそれを統一する聖杯の「中身」で、小野小町を表すようです。

 

大津市の石山寺の寺紋である「裏菊」(うらきく)の「菊裏」(きくり)や「紀栗」(きくり)の意味もありそうです。

 

菊栗祝(ここくりいわい)と言って、9月は物事の完成を意味するようです。

能の菊慈童(きくじどう)では観音経の二句の偈を記した菊の葉に落ちた水滴が不老不死の霊薬となったという話も、9月の菊の節句と重なります。

9月の古名は長月(ながつき)と呼び、夜が長い月という意味だと説明されます。

 

だけど、元々は長刀(なぎなた)を持った神功皇后、長尾神社の持統天皇が天照大神を表していたのかもしれません。

 

しかし、最終的には誓約(うけい)によって天照大神と素戔嗚尊の男女が入れ替わり、月の兎(うさぎ)である「卯月」(うずき)の4が持統天皇のシンボルとなります。

 

月の兎の出典は中国の楚辞(そじ)という書物ですが、顧菟(こと)と書かれ、元々は姮娥(こうが)と呼ばれるヒキガエルを指し、オタマジャクシから四本の「足」が生える事から死と再生を意味し、二見興玉神社では甦りのシンボルとして猿田彦大神のお使いとされます。

 

カエルは雨乞いをする大きな「口」もシンボルで、信楽焼などでは大国主命を意味する狸が有名ですが、口を開けた「あきガエル」も縁起物とされます。

「あき」は「空」(くう)で、田畑の収穫の秋(あき)や、安芸(あき)の宮島や、太陽が沈む「菊水」など、奇魂(くしみたま)の「西」や、「白」の意味にもなります。

 

田んぼの農作物に必要な雨を降らす祈りの言葉の「顧菟魂」(ことだま)はオタマジャクシの形を表す三つ巴紋の意味もあるのかもしれません。

 

日本神話の「多邇具久」(たにぐく)というヒキガエルが持統天皇を表す「口」になり、足が無い「久延彦」(くえびこ)という案山子(かかし)が天武天皇を表す「十」になり、合わせる事で食料を生み出す「田」となります。

 

しかし、天武天皇の「十」(と)は隠されたので戸隠神社(とがくしじんじゃ)となり、「九枝」(くえ)の「九」が新たなシンボルとなったようです

 

九州(三重)は素戔嗚尊の天武天皇で、四国(滋賀)は天照大神の持統天皇、二つ合わせて「九四」(くし)で、奇魂(くしみたま)となり、鏡餅の串柿や、御手洗団子の串(くし)が東西を横に貫く天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という意味になるみたいです。

 

小野小町や、檀林皇后(だんりんこうごう)などの九相図(くそうず)は死体が朽ちていく段階を「九」に分けた仏教絵画で、諸行無常(しょぎょうむじょう)を表すものです。

 

「九」(く)は「苦」(く)に通じて、一切皆苦(いっさいかいく)を表し、「四」(し)は「死」(し)に通じて「四諦」(したい)や、「四法印」(しほういん)という悟りの境地を表します。

 

九重の 花の都に住みわせで はかなや我は 三重に隠るる

 

これは、妙性寺に伝わる小野小町の辞世の句だそうですが、九重の花の都とは京都の事で、三重が何処なのかが謎になります。

 

九は平家がシンボルにしようとした九尾の狐で、三重は源氏がシンボルにした佐助稲荷…そして、そのまま三重県の伊勢神宮…三つ巴紋。

 

因みに古都(こと)の奈良は八重桜と、どれも持統天皇が辿って来た、その時々のシンボルです。

 

桜は杉に変えられ、カエルは兎に…九尾の狐は九頭龍に…菊は菊水に…

諸行無常(しょぎょうむじょう)に姿を変えて消えていきます。

 

だけど、春の雪解けと同じで「水」は、また、何処かで姿を変えて生まれてくるフェニックスのようなものなのかもしれません。

私が、ここへ来たかった理由は、今から10年程前に、夢の中に、ここの神様が白い姿で現われて、銀色に輝く珠の入った袋をくださったからです。

夢の中では、私は、いただいた銀色に輝く珠を食べていたわけですが、その珠が、なんなのかわかりませんでした。

真珠ぐらいの大きさでした。

あれが「真名」?

とにかく、普通にみる夢とは、感じが違っていて、色も姿も、鮮明だったので、それで、いろいろと調べていくうちに、ここに辿り着いたというわけです。

調べていくうちに分かったのですが、ここの神様は私のご先祖様だったみたいです。

とりあえず、仕事が忙しくて来る暇がありませんでしたが、念願の神社に来れました。

真名井神社が終わったので、傘松公園に行こうと思います。

傘松公園には、坂がきついので、ケーブルカーで行きます。

ここは、私が昔、勤めていた会社の社員旅行で来たことがあるので、2度目になります。

こんな坂を登ります

さあ、着きました。

そこは、柵がしてあるので、入ったら駄目ですよ!!

やっと、広い場所に出ました。

た~まや~。

ここが、日本三景の一つと言われる傘松公園から見た天橋立です。

天に昇る龍に例えて、昇龍観(しょうりゅうかん)と呼ばれています。

俺は、あそこを歩いて来たのか!!

すげー

海も光を反射して綺麗です。

股のぞきをして逆さまに見た景色は飛龍観(ひりゅうかん)と呼んで、天に昇った龍が天界から如意宝珠(にょいほうじゅ)という玉を貰って、再び地上に降臨する姿だと言われます。

つまり、小野小町の真似をして股のぞきをして全てが完成するという事のようで、ここではみんな股のぞきをして景色を楽しんでいます。

う~ん絵になるなぁ。

こうして、小旅行は、終わりました。

帰りは、歩いて帰らず、ボートで帰りました。

さすがに、あの距離を上から見たら、歩いて帰る勇気がわきませんでした。

でも、楽しかったです。

おしまい。

コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    まいく (土曜日, 02 2月 2013 20:32)

    シュメールと結びつけるとは・・面白いですね

    偶然でしょうか・・こちらの宮司さんが高野山の麓にある
    ゆの里さんの販売している月の雫という銘柄の名水の名付け親なんです

  • #2

    西野 皐月○ (木曜日, 14 1月 2016 09:29)

    「真名井」神社へ 遠き昔深きご縁があったそうなので、近々行ってきたいと思っていた時、こちらの日記に出会いました。ありがとうございます(一礼)