聖と俗のお話

司馬遼太郎の小説は、下品だから嫌いだという人がいます。

 

確かに、うんこの話や、やらしい話がよく出てきます。

 

司馬遼太郎は上品振るのが嫌いな人みたいで、すぐに、下品な話になります。

 

そういう時は、飛ばして先を急ぎます。

 

そういう一面は確かにありますが、良いこともいっぱい書いてあります。

 

私は、良いことの比重が大きいので、ちょっとした下品な話なんかは、全然許せます。

 

でも、人によっては、それが許せないみたいです。

 

 

人は、上品なものに憧れます。

 

反対に、下品なものは軽蔑します。

 

この、上品と、下品を分ける基準は

 

何だと思いますか?

 

定義は、何だと思いますか?

 

 

 

 

それは、動物です。

 

動物に似ているものは下品で、その反対が、

 

上品なのです。

 

神様は上品の代表で、人間の憧れです。

 

うんこも、しっこもしません。

 

悪魔は下品の代表で、動物のように角が生えてて尻尾があります。

 

 

人間は、猿から進化してきて、大脳が発達して知識を身につけました。

 

知識によって、隠すということを覚えるのです。

 

嘘も、同じです。

 

だから、頭がいい人ほど、悪人になりやすくなります。

 

頭が悪い人ほど、性格は善かったりします。

 

 

 

人間も動物なので、本来は、下品なものなんですが、そういった下品な部分を隠して、綺麗な部分だけを見せようとします。

 

そうすることで、動物ではなく、崇高な神様に近付ける気がするのです。

 

聖職者が結婚をせず、男女の愛を「エロス」として軽蔑するのも、その行為が動物的だからです。

 

現在、アメリカの学校でダーウィンの進化論を教えないのも、人間は神様が創ったという旧約聖書の教えを信じ、猿という動物から進化したという事実が、とても下品に感じられるからだと思われます。

 

スープを音を立ててすするのも道具を使わない動物に近いからで、動物を連想するような行為は、みんな下品なのです。

 

そういうところを見られるのは、恥ずかしいのです。

 

 

 

旧約聖書のアダムとイヴの話で、食べると神様と同じぐらい賢くなれるという「知恵の実」があります。

 

ヘビから勧められて、二人は禁断の実を食べてしまい、神様から怒りを買い天国から追放されます。

 

知恵を身につけた途端に、裸が恥ずかしくなり、

 

イチジクの葉っぱで、秘部を隠したというあれです。

 

この瞬間が、動物が、人間になった第一歩です。

 

恥ずかしいと感じるのは、知恵があるからなのです。

 

 

下品、上品は、そういった人間の優越感と羞恥心が影響しています。

 

動物ではなく、人間だという優越感です。

 

動物のようにはなりたくないという、羞恥心です。

 

 

上品振る人に自惚れている人が多いのは、その為です。

 

下品振る人は劣等感の反動で、そうなるので、貧乏な人や教養のない人が多いのです。

 

 

司馬遼太郎の知識は、半端じゃありません。

 

本来は、上品を演出できる人が、あえて、下品に振舞っている感じです。

 

 

小説を、おもしろおかしくしようと思っているのか、上品振るのが、嫌いなのか、真意は不明ですが、その部分はほんの一部なので大目にみて読んでほしいと思います。

 

本当に、いい作品をたくさん残されています。

 

 

話は変わりますが、動物も可愛いものです

 

我儘ですが悪意がありません。

 

 

 

たまに、噛まれたりしますが。