今日は、元春日(もとかすが)だと言われる枚岡神社にやって来ました。
近鉄奈良線の枚岡駅を降りると、目の前にすぐ、参道があります。
ご祭神の第一殿の天児屋根大神(あめのこやねのおおかみ)とは、藤原氏の祖神で、天の児を守る屋根の神様という意味があるようです。
天の児とは、鹿の児で、鹿児(籠)=「かご」という意味で、天智天皇と天武天皇の2人のことです。
第ニ殿の比売神(ひめかみ)とは、天智天皇の妃で、大化の改新の功労で、藤原鎌足が正妻に貰った鏡王女(かがみのおおきみ)です。
鏡王女の
初瀬川を挟んで三輪山と対峙する山が忍坂山(おさかやま)で、歌には、「青旗の山」
青旗とは、木幡や、葛城山にも掛かる枕詞で、伽耶国の王族、葛城王朝の飯豊青皇女(豊受大神)を表す言葉です。
女王をめとれるのは王に限るという規則があり、そのため鎌足がどれほど有力者であろうとも女王をめとれるわけがなく、舒明の皇女「鏡女王」は年代から別人であり、後世の創作であろうとする説もあります。
額田王(ぬかたのおうきみ)の姉ではないかとも言われます。
額田王は、天武天皇の妃でしたが、天智天皇が無理矢理、自分の妃とした人物です。
これが原因で壬申の乱(じんしんのらん)が起こったのではないかとも言われています。
額田王は、額田部皇女と言われた推古天皇と同族の人物かもしれません。
額田王も、鏡王女も、とにかく、謎が多い人物です。
第三殿は、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、蘇我倉山田石川麻呂の別名です。
第四殿は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で、藤原氏の武神です。
枚岡神社は、中臣氏の支流の平岡連(ひらおかのむらじ)の氏神とされ、神津嶽(かみつだけ)の山頂に祀ったのが始まりで、白雉元年(650)に、現社地に神様をお遷しされたと言い、河内国一之宮と言われます。
河内は、大豪族物部氏の勢力の本拠地で、その地に春日大社の春日大明神が居られたということです。
春日大明神とは鹿の神様で、天智天皇から貰い受けた鏡王女を表すようです。
天智天皇は、物部氏系の天皇で、鏡王女に気を寄せていた鎌足に、身分不相応の鏡王女を正妻に与えたのかもしれません。
奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある五重塔が有名な藤原氏の氏寺の興福寺(こうふくじ)があります。
鎌足夫人の鏡王女が、夫の病気平癒を願い、天智天皇8年(669)に山背国山階(現在の京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が起源になります。
仏教を敵視した神道の藤原氏の為の仏教のお寺であり、仏教と神道の間を鹿(鏡王女)が取り持ったという形になります。
落ち着いた雰囲気のある神社です。
石段を登る手前に狛鹿(こましか)がいます。
鹿はキリスト教でも聖獣とされます。
犠牲になる動物を表し、十字架に掛けられたイエス・キリストを表します。
向かって右が角の生えた雄鹿です。
向かって左が子供と一緒の雌鹿です。
雌鹿は子供の方を向いていて、守っているような感じがします。
こちらの狛鹿には、看板が置いてあります。
なでると子供の幸せに御利益があるそうです。
神紋は藤の紋です。
さあ、登りましょう。
着きました。
拝殿です。
藤原氏のシンボルの龍です。
中臣鎌足は、中国の史書に関心を持ち、殷(いん)を滅ぼした周(しゅう)の太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)の「六韜」(りくとう)と呼ばれる兵法書を空で言える程、暗記し、隋・唐に留学していた南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾で儒学を学び、蘇我入鹿と共に秀才とされた人物です。
呂尚(りょしょう)とは、大の釣り好きで、釣竿を持った恵比寿さんのイメージとよく似ています。
合理主義者で、殷の呪術的な文化に終止符を打ちました。
また、「覆水盆に還らず」という、ことわざでも有名な悪縁切りの人物でもあります。
殷の文化的影響が大きいと思われる蘇我氏を打倒するために、鎌足は「六韜」を勉強していたのかもしれません。
「六韜」で一番重要なことを書いている書を「虎の巻」と呼びます。
拝殿の右側から抜けれるようです。
摂社の若宮社と、末社の天神地祇社と呼ばれる社がありました。
社のある道を抜けると、梅林のある広場に出ました。
今は季節が違うので、梅はまだ見られません。
神社によくあるロータリークラブです。
ハケとブラシが有名なようです。
一応、ここで終わりなんですが、今回は、ここから約30分~40分ぐらい山道を登って、神津嶽(かみつだけ)山頂にある奥宮(ほんぐう)に行ってみようと思います。
こちらの道から行けるようです。
けっこう、急な坂道が続きます。
ハイキングコースのようです。
私は、歩いて30分程で、ようやく展望台に着きました。
山頂までは、あと少し歩かないといけないのですが、ちょっと休憩です。
写真では分りにくいですが、大阪を一望できる絶景です。
天気の良い日なら、淡路島まで見えるそうです。
今日は、天気も悪く、霧のように霞んでいて、少し残念ですが、それでも充分にすがすがしい気分を味わえます。
隣のベンチで、おにぎりを食べてるハイキングの方がおられましたが、こういう空気のおいしい所で食べる弁当って、妙においしいんですよね。
それでは、あともう少し頑張りましょう。
ここから10分ぐらい歩くと、鳥居が見えて来ました。
いよいよ山頂のようです。
社が見えて来ました。
あれが奥宮(本宮)のようです。
着きました。
綺麗な石の社です。
鎌足の子に、藤原不比等(ふじわらふひと)という人がいます。
不比等は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤だという説があります。
「大鏡」では天智天皇が妊娠中の鏡王女を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったとされ、生れた子が男だったので、藤原姓を名乗ったというものです。
「公卿補任」「帝王編年記」「尊卑分脈」などの書物にも同様の記載があり、平安時代まで、この伝説はかなり信憑性を持っていたようです。
文武天皇2年(698)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことが出来るとされ、不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓を名乗り、神祇官として祭祀のみを担当するとして、藤原氏と中臣氏は明確に区別されました。
このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖となっています。
現在は、不比等が天智天皇の子だとする証拠がなく、それらの書物の信憑性も疑問視されているので、落胤説を支持する学者は少ないようです。
鎌足が、身分不相応の鏡王女を正妻としたことや、不比等の異例の出世から、そういう伝説が生まれたのかもしれません。
しかし、もし真実なら、鎌足は不比等という「鹿の児」を育てたということになり、天智天皇から疎まれず、藤原氏が最後まで滅ばなかった理由も分るような気がします。
なで鹿の狛鹿の姿が頭をよぎります。
それでは、時間も遅くなってきたので、そろそろ帰ります。
帰りは下り坂です。
お疲れ様でした~
Ango family (水曜日, 25 6月 2014 22:59)
凄い!です、尊敬いたします。
お久しぶりで御座います、阪急北花田で切紙をしておりました大東です。以前から色々と拝見しておりましたが、枚岡神社は毎年お正月に唯一参拝するところであります。
私宅の地鎮祭もお願いし、車の御祓いもお受けしております。社務所玄関には、私の作りました布団太鼓を飾って頂いております。また、お邪魔いたしますありがとう御座いました。