石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ) 下之宮

今日は、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)に行こうと思います。

この神社には上之宮と、下之宮と二つの社があり、下之宮が本宮とされます。

まずは、下之宮から行って見たいと思います。

石切神社は、生駒山中の宮山に可美真手命(うましまでのみこと)が饒速日命(にぎはやひのみこと)を奉祀されたのを神社の起源とする記紀の時代から続く古い神社だそうですが、昭和23年に神社本庁から抜けて、神道石切教という宗教法人として独立した神社のようです。

可美真手命(うましまでのみこと)とは、物部氏の饒速日命(にぎはやひのみこと)が秦氏の長髄彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋姫(みかしやひめ)を娶って生んだ子供です。

地元の人達からは、「でんぼ(腫れ物)の神」、「癌封じの神」などの医療の神として信仰され親しまれているようです。

石を切ることが出来る劔(剣)と、石をも貫く箭(矢)が、病気との悪縁を絶つというイメージになったのかもしれません。

近鉄石切駅から、こんな感じで坂道を下っていくと、下之宮に行けます。

漬物、漢方薬、占い、瀬戸物、パワーストーンなどのお店のある道を抜けていきます。

みんな饒速日命(にぎはやひのみこと)と関係のあるものばかりです。

雑多な商店街のようで、楽しくて、庶民的な道です。

途中に、名物になっている大仏さんがありました。

後で、ネットで検索すると、赤まむしドリンクを販売する阪本漢法製薬の四代目当主の阪本昌胤 という方が、創業の地である石切に昭和55年(1980年)に建立されたとされる阿弥陀如来(あみだにょらい)の大仏だそうです。

誰でも入れるようになっていて、目を引きます。

まむしは、毒蛇で、饒速日命(にぎはやひのみこと)と関係が深く、阿弥陀如来は、浄土の仏で、皇極天皇を表すものと思われます。

地蔵菩薩も、閻魔大王、不動明王、どれも饒速日命(にぎはやひのみこと)と同一の仏で、天智天皇を意味します。

これを造った阪本昌胤という方は、石切神社の熱心な信者さんだったようです。

途中に、石切不動と呼ばれるお堂がありました。

中に不動明王の石像があります。

こちらも、神社とは直接、関係はないと思いますが、とても気になります。

手前にひしゃくが有り、水を掛けるようです。

不動明王も、地蔵菩薩と同じで、石で造られることが多く、水を掛けて施餓鬼供養を行なったりします。

不動明王は、全ての人を平等に救う仏とされ、同じような意味合いがあるのかもしれません。

密教の大人気の仏です。

この通りは、四柱推命、手相、タロット占いなど、様々な占い屋が並びます。

料金は、1000円~2000円が多いようです。

占いの起源は、中国の殷(いん)の時代の亀卜(きぼく)からで、日本の女王、卑弥呼(ひみこ)が行なったものです。

卑弥呼(ひみこ)とは、饒速日(にぎはやひ)の妃の三炊屋姫(みかしやひめ)は、日本武尊(やまとたける)の神話では、海に身を投げた弟橘姫(おとたちばなひめ)に当たります。

石切神社の祭祀は代々、木積氏が司ってきたそうで、木積氏は物部氏の最有力氏族のひとつ「穂積(ほづみ)」から転じたものだそうです。

穂積氏は、弟橘姫の父で、饒速日命(にぎはやひのみこと)の七代孫の忍山宿彌(おしやますくね)の子孫だそうです。

こちらは漬物横丁と書かれています。

お茶を飲めるお店もあります。

つぼ漬け420円と、からし高菜300円を買いました。

漬物を「香の物」と呼びますが、日本武尊(やまとたける)が名付け親です。

愛知県あま市にある鹿屋野比売(かやのひめ)を祀る萱津神社で、神前に塩と野菜を甕(かめ)に入れて供えるようにしたところ、野菜が塩漬けとなり、偶然にも漬物になったと伝えられます。

日本武尊(やまとたける)が、東征の途中、この地に立ち寄った際、人々がこの漬物を献上したところ、武尊は「藪二神物」(やぶにこうのもの)と称えたと伝えられ、このことから漬物を「香の物」とも書くようにもなったとされます。

こうして、いろいろな漬物が作られるようになりましたが、日本の漬物の種類の多さは、世界的にも珍しいようです。

それから、ここから少し進んだ梅月堂さんという和菓子のお店で、お百度三笠と呼ばれる三笠焼きも買いました。

一個280円で、第五回近畿生菓子展名誉金賞受賞だそうです。ボリュームがあって、見た目のインパクトも大阪という感じがします。

三笠焼きは、形状が奈良の若草山に似ていることから関西で呼ばれる名称で、若草山=三笠山になっていますが、本来は、若草山(卑弥呼)、春日山(壱与)、高円山(台与)の三連の山で三笠山ということです。

関東では、打楽器の銅鑼(どら)に似ていることから、どら焼きと呼ばれます。

火の行事の多い奈良で、新年を祝う若草山の山焼きの由来は諸説ありますが、おそらく、鹿の餌となる芝生や茅の春の芽生えを促す為、冬の枯れ草を焼くのが本来の目的だと思われます。

若草山は、山焼きしないと、牛鬼という妖怪が出るという噂も現われ、民間信仰とも結び付いていきました。

鶯(うぐいす)は、「梅に鶯」と言われる前は「竹に鶯」と言われていたようで、若草山の頂上にある鶯塚古墳(うぐいすかこふん)は三炊屋姫の別名の磐長姫(いわながひめ)を祀っているのではないかと言われています。

先程の赤まむしドリンクを販売する阪本漢法製薬の建物のようです。

天狗の絵が目を引きます。

天狗は猿田彦大神(さるたひこおおかみ)であり、秦河勝(はたのかわかつ)と習合した藤原鎌足を表すようです。

さあ、やっと着きました。

鳥居の前に置かれた百度石と、拝殿の前に置かれた百度石の周りを10人以上の人が、ぐるぐると時計回りに回っています。

この神社のお百度参りは有名らしく、みんな熱心に無言で回っています。

こちらは絵馬殿と呼ばれる建物です。

この絵馬殿には、仁王像のように、左右に饒速日命(にぎはやひのみこと)と可美真手命(うましまでのみこと)の像が祀られています。

入って左が、饒速日尊(にぎはやひのみこと)です。  手に持っているのが天の羽羽矢(あめのははや)と呼ばれる石をも貫く矢です。 

羽羽(はは)とは蛇という意味があり、天の羽羽矢が、蛇の呪力を持った矢とされたことから、おそらく、毒蛇の毒を塗った毒矢だったのかもしれません。

羽羽(はは)は母(はは)であり、秦氏を象徴する弓矢のようです。

物部氏を象徴する「饒速日尊」(にぎはやひのみこと)が秦氏を象徴する「弓矢」をもっているという事のようです。

そして、向かって右が、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の息子の可美真手命(うましまでのみこと)です。

手に持っているのは、饒速日尊(にぎはやひのみこと)より譲り受けた布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)で、石をも貫く剣です。

この剣は、別名を十束剣(とつかのつるぎ)とも呼び、イザナギがカグツチを斬った時に使い、カグツチの血と十束剣から八人の神様が生まれたり、天照大神と、素戔嗚尊が誓約をする時に、天照大神が十束剣を真名井の水ですすぎ、噛んで口から霧のように吐いたら、宗像三女神が生まれたり山幸彦が、海幸彦の釣り針を失くした時に、十束剣を砕いて無数の釣り針を作って海幸彦に渡したり、海人族にも、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の血が入ったことを表し、十束剣が、たくさんの神々を生んだ象徴的な剣とされ、饒速日尊(にぎはやひのみこと)そのものを神格化した剣と言えそうです。

秦氏を象徴する「可美真手命」(うましまでのみこと)が物部氏を象徴する「剣」を譲り受け、物部氏の息子として役割を演じるという事だと思われます。

饒速日尊(にぎはやひのみこと)の孫とされる味饒田命(うましにぎたのみこと)であり、山城や摂津、和泉などに物部氏の子孫と称して氏族を増やした阿刀氏(あとし)を象徴するようです。
秦氏と物部氏を結びつけ、饒速日尊(にぎはやひのみこと)を太陽神にまで持ち上げた大国主命のようです。

可美真手命(うましまでのみこと)は、神武天皇に仕えて、尾張・美濃・越国を平定し、その後、出雲の石見国に入ったとされ、現在の島根県大田市の八百山にお墓があり、麓の物部神社(もののべじんじゃ)にご祭神として祀られています。

饒速日尊(にぎはやひのみこと)が持っていた剣は、もう一つあって、その剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼び、別名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と言います。

天皇家の三種の神器の一つで、熱田神宮の御神体でもあります。

饒速日尊(にぎはやひのみこと)には、可美真手命(うましまでのみこと)とは別に腹違いの子供が、もう一人いて、天香語山尊(あめのかごやまのみこと)と呼ばれます。

尾張氏の祖であり、草薙剣を持つ氏族です。

草薙剣は、スサノオがヤマタノオロチ(物部氏)を退治して、尾を切ったら出てきた剣で、尾を割るで、尾張(おわり)と呼ばれます。

尾張氏は、蘇我氏に仕えて、雄略天皇の時代には、東国を平定するのに水軍を率いて力を発揮しました。

日本武尊が草薙剣を持っていた時は、無敵だったのに、草薙剣を持たずに出掛けたら命を落としてしまったという神話は、尾張氏の力を借りれなくなった蘇我氏を表しているようです。

尾張氏は美濃、飛騨などに居住の後、乎止与(おとよ)の時に尾張国造となり、日本武尊の時代には、熱田の南に拠点を移し、その後裔は、熱田神宮大宮司を代々勤め、同族に、住吉大社の社家の津守氏や、籠神社の社家の海部氏などがいます。

尾張氏、津守氏、海部氏は、みんな海人族(あまぞく)の氏族で、山幸彦(ニニギやニギハヤヒ)に従った兄の海幸彦を表しているようです。
この尾張氏から、織田信長が生まれました。

牛の像です。 

饒速日尊(にぎはやひのみこと)や、天神を祀る神社には、だいたい牛の像が置かれます。 

「続日本紀」延暦4年(785年)6月条は東漢氏(やまとのあやうじ)の由来に関して、「神牛の導き」で渡来したことが書かれ、東漢氏の始祖の阿知使主(あちのおみ)は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の別名だと思われることから、牛がシンボルとなっているようです。

東漢氏は、製鉄技術をもたらした帰化系氏族集団で、軍事力にも秀で蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当していました。 

牛は牛頭天王として、素戔嗚尊(すさのおのみこと)とも同一視され、蘇我氏の信仰とも重なります。

ちなみに素戔嗚尊の神紋は木瓜紋(胡瓜)で、織田信長の家紋と同じです。

これは、素戔嗚尊(蘇我氏)の血を引く尾張氏から織田氏が分かれたからです。

胡瓜を輪切りにした形です。

「胡」という字がつくものはシルクロードから入ってきたものが多く、おそらく蘇我氏によって胡瓜が持ち込まれたのかもしれません。

こちらは水神社と書かれていて、池の社に、たくさんの亀がいます。

昔は、この亀の甲羅に願い事を書いて池に放す風習があったそうです。

饒速日尊(にぎはやひのみこと)の妃の三炊屋姫(みかしやひめ)は、弟橘姫(おとたちばなひめ)とも呼ばれ、推古天皇を象徴する龍宮城の乙姫様です。

亀が使いで、亀の甲羅を使った亀卜によって神意を問いました。

亀が使用されたのは、長寿の亀が神聖視されたからかもしれません。

古事記では、イザナミが、「火之迦具土神」(ひのかぐつちのかみ)(物部氏)、「稚産霊神」(わくむすびのかみ)(蘇我氏)、「罔象女神」(みつはのめのかみ)(秦氏)の三神を産み、火之迦具土神が火の神であった為に、火傷をして亡くなります。

 

稚産霊神(わくむすびのかみ)は風の神で、この娘が豊受大神(とようけのおおかみ)となり、蘇我氏の後継者になります。

   

罔象女神(みつはのめのかみ)の「みつは」とは三つの波という意味の「三波」(みつは)で、水の三つの形態を表します。

 

日本書紀では、稚産霊神(わくむすびのかみ)の代わりに土の神の埴山姫(はにやまひめ)(土師氏)になっていますが、三神という構成は同じです。    

 

この神社の近辺に「水走」(みずはい)と呼ばれる地名がありますが、これも「水走」(みつは)から来ていて、田んぼに水を引く用水路を意味し、枚岡神社の平岡連と同祖の水走氏(みずはいし)が有名です。

 

推古天皇(罔象女神)と藤原不比等の母の鏡王女(かがみのおおきみ)が同族だったものと思われ、推古天皇(天鈿女命)と藤原鎌足(猿田彦大神)を結び付ける意図があったようです。

 

「罔象女神」(みつはのめのかみ)と一緒に祀られている「天水分神」(あめのみくまりのかみ)は水を三つに分ける神で、「神社明細帳」によると、籠神社(このじんじゃ)のご祭神とされ、皇極天皇を象徴する宮都姫(みやつひめ)の別名だと思われます。

神道では、人間が死ぬと魂が抜け出すと考えられ、それを防ぐ為に鎮魂祭(ちんこんさい)という儀式を行いました。

鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていて、この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神、天照大神の子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われたそうです。

「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)では、可美真手命(うましまでのみこと)が十種の神宝(とくさのかんだから)を使って神武天皇の心身の安鎮を祈ったとの記述があり、これが鎮魂祭の始めだそうです。

可美真手命(うましまでのみこと)が行なった鎮魂祭の儀式は、死者をも蘇生させる威力があったとされ、それが、病気平癒の信仰に繋がっているようです。

鎮魂祭に使われた祝詞が、「ひふみ祝詞」と呼ばれるものです。

1ひ、2ふ、3み、4よ、5いつ、6む、7なな、8や、9ここ、10と、と祝詞を唱えながら、十種の神宝(とくさのかんだから)を振って祈ったとされます。

この1ひ、2ふ、3み…という言葉は、やまと言葉と言われる言葉で、一文字、一文字に意味を宿し、それを口に出すことで霊力が宿るとする言霊(ことだま)信仰が生まれます。

1は火(ひ)から始まり、3は水(み)で、対極を表す奇数の文字ですが、偶数の2は風(ふ)で火と水の産霊(むすび)を表すそうです。

先程の罔象女神(みつはのめのかみ)の「みつは」の意味も、3(水)から来ているわけです。

この馬の像は、イシキリツルギヤ号という元競走馬で、この馬のオーナーが、奉納したものだそうです。

さあ、本殿です。

お参りしましょう。

こちらは穂積神霊社と書かれています。

穂積氏の氏神でしょうか?

あなたの願いごとを、小亀のお腹へ入れて?

おお。

陶器で出来た無数の小さな亀が、階段を登っています。

なんか、ちびっこくて可愛い。

どうやら、ここに放すようです。

池にもいっぱいです。

なんだか、コアラのマーチを思い出します。

よく見ると、亀のお腹に穴が開いていて、紙が詰まっています。

面白そうなので、私もやってみましょう。

巫女さんに許可を得て、写真を撮らせていただきました。

 500円で左の小さな亀を購入して、一緒にいただける紙に、名前と願い事を書いて亀のお腹に納めて、先程の池に放すようです。

そして、願いが叶ったら、1000円の右の赤い亀を購入して、神様にお礼をするそうです。

これで、一応、下之宮は終わりです。

最後に、お腹が空いたので、鳥居を出た正面の「すずや」というお店で、天ぷらうどんのセットを食べて帰ります。

日本人に多い鈴木という姓がありますが、大木に鈴を下げ信仰した氏族で、これが、拝殿で鳴らされる本坪鈴(ほんつぼすず)の元になりました。

鈴木を苗字にする家の多くは穂積を本姓としていて、熊野三山信仰と関係が深く、戦国時代に織田信長と戦った雑賀衆(さいかしゅう)も、多くが鈴木姓を名乗っています。

雑賀衆(さいかしゅう)は八咫烏(やたがらす)の紋を旗にする鉄砲武装集団です。

鉄砲は、弓が進化した武器とも言え、私は、そこに因果を感じます。

このお店の壁に、「すずや」という名前の由来が書いてありました。

本坪鈴は、大きく鳴らした方が、願いを聞き届けてくれるそうで、「よく鳴る」=「良くなる」という意味だそうです。

この神社を訪れる人には良くなってもらいたいということらしいです。

 

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