手水舎です。
なんとウサギです。
神功皇后が住吉大神を祀ったのが、卯歳(うのとし)、卯月(うづき)、卯日(うのひ)であったことから、ウサギを神使いとしているそうです。
角鳥居(かくとりい)と呼ばれる鳥居です。
鳥居の柱が円柱ではなく、四角柱になっていて、古い形式の珍しい鳥居だそうです。
本殿です。
第一本宮から第四本宮まであり、手前が第三本宮と第四本宮です。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、様式は、神社建築史上最古の国宝建造物だそうです。
こちらは、第四本宮。
神功皇后が祀られています。
その前に、「撫でうさぎ」と書かれた像がありました。
悪い部分を撫でて病気が治るようにお願いするようです。
ウサギが神使いだと看板に書かれています。
像は翡翠石で作られているそうです。
その隣りが第三本宮で、表筒男命(うわつつをのみこと)を祀っているそうです。
海上の神様です。
そして、一つ奥に進むと、第二本宮です。
中筒男命(なかつつのをのみこと)を祀っています。
海中の神様です。
そして、一番奥が、最後の第一本宮。
底筒男命(そこつつのをのみこと)を祀っています。
海底の神様です。
本殿は以上で終わりです。
それでは、周りを見てみましょう。
本殿の左側を出たところに、二匹の龍と鏡がありました。
大神宮とは、住吉大神宮のことでしょうか?
奥に進むと、龍の手水舎があり、その近くに、楠珺社(なんくんしゃ)と呼ばれる末社がありました。
末社とは、本社の祭神との由縁はないのですが、崇敬者が勧請(かんじょう)といって、他の神社から境内に招いた神様を祀る社です。
中には、提灯がぶら下っていて「お稲荷さん」宇迦魂命(うかのみたまのみこと))を祀っているそうです。
眷属は、白蛇でイチキシマヒメと同じ神様でしたが、ダキニ天の白狐が習合して、狐の方が有名になりました。
シュメール神話のイシュタル(イチキシマヒメ)に仕える白獅子(白狐)のアンズー鳥と同じ関係だと思います。
秦氏の氏神で、京都の伏見にある伏見稲荷大社の稲荷山も、昔は、弁天さん(イチキシマヒメ)を祀っていた山で、秦氏がお稲荷さんを祀るようになってからは、蛇と狐がシンボルとなっています。
『山城国風土記』逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として、秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)は、富裕に驕って餅を的にしました。
するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去り、そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となったとあります。
伊呂具はその稲の元へ行き、過去の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったと言い、その木は、「杉」の木だったと言われます。
これ以来、伏見稲荷大社では、「杉」の木は神木で、神楽を舞う巫女の頭にも「杉」の葉が飾られるそうです。
お稲荷さんは、白い獅子(狐)であり、白い鳥であるというわけです。
この楠珺社には、裃を着た白い招福猫の人形が置かれています。
まあ、猫の方が、獅子には近いわけですが…
ここで、お守りを買いました。
「五」「大」「力」の文字が三角の中に書かれているストラップです。
こちらは、本殿の右側を出たところで、五所御前(ごしょごぜん)と呼ばれる場所だそうです。
中央に細長い「杉」の木が一本立っています。
神功皇后が住吉大神をお祀りするための土地を求められたとき、この杉の木に白サギが3羽きて止まったので、ここへお祀りしたと伝わる場所だそうです。
「杉」という字は「木」に「三」と書き、この白サギの話を表現したような字です。
5+3=8になります。
石の玉垣のなかにある砂利にはマジックで「五」「大」「力」と書かれた小石が3種類あり、それを一組見つけて持ち帰り、お守りにして願い事をするそうです。
「五大力」とは、「体力」、「智力」、「財力」、「福力」、「寿力」の五つの力だそうです。
願いがかなった場合、その石を玉垣に戻して、新たに同じような大きさの石を拾ってマジックで「五」「大」「力」と書いて玉垣に入れるそうです。 願いが叶ったお礼は、倍返しというわけです。
こちらは、若宮八幡宮という摂社です。
摂社とは、ゆかりの深い親戚筋などを祀る社のことです。
後から知ったのですが、この若宮八幡宮の御祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、つまり応神天皇と、武内宿禰でした。
普通、よくある八幡神は、応神天皇、比売神(ひめかみ)、神功皇后の三神を祀っています。
比売神は、宗像三神のことです。
武内宿禰が祀られているのは珍しいように思います。
そして、こちらは、舞楽を奏でる石舞台です。
慶長年間に豊臣秀頼によって奉納され、重要文化財に指定されているそうです。
毎年5月の卯之葉神事では、舞楽が行なわれるそうです。
末社の浅沢社(あさざわしゃ)だそうです。
市杵島姫命(イチキシマヒメ)を祀っています。
その隣りが大歳社(おおとししゃ)です。
御祭神は大歳神(おおとしのかみ)となっています。
節分に恵方巻を食べる方角が、この大歳神のいる方角だとされます。
この住吉大社では、初辰まいりと呼ぶ、種貸社、楠珺社、浅沢社、大歳社の四社をお参りする慣わしがあります。
種貸社と楠珺社は、宇迦魂命(うかのみたまのみこと)を、
浅沢社は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を、
大歳社は、大歳神(おおとしのかみ)をお祀りしていて、
この四社で宗像三神になるわけです。
初辰とは、白辰(白蛇)だというわけです。
この奥に「おもかる石」という石があるようです。
一度、持ち上げて重さを計り、願い事を祈念した後、もう一度、この石を持ち上げ、軽く感じれば願いが叶い、重く感じれば叶わないと言われる石です。
けっこう重く、歳をとると二度目の方が重く感じるのが普通だと思います。
願い事を叶えるには、若さという「力」も必要なのかもしれません。
しかし、私は「気力」で、倍の「力」で持ち上げました。
重くても軽いふりです。
馬の像があります。
日本に馬が入って来たのは、古墳などの発掘から、応神天皇の頃だと言われています。
この時期の渡来人が馬を持ち込んだのだろうと思います。
その近くに市戎大国社(いちえびすだいこくしゃ)があります。
事代主命(えべっさん)と、大国主命(大黒さん)が祀られています。
どちらも、住吉大神の別名です。
えべっさんの御使いも「馬」です。
先程、登った太鼓橋を横から見たところです。
川に映って綺麗です。
石の橋脚は慶長年間に淀君が奉納したものだそうです。
こちらは、誕生石と呼ばれる所です。
源頼朝(みなもとのよりとも)の寵愛を受けた丹後局(たんごのつぼね)がここで出産したと伝えられ、その子が薩摩藩「島津氏」の始祖の島津忠久(しまづただひさ)です。
ご存知のように、源頼朝は、武士による初めての政権を鎌倉に開いた鎌倉幕府初代将軍です。
この住吉大社は、源氏とも深い係わりがあります。
源氏は、百済の第31代 義慈王(ぎじおう)の王子であった扶余豊璋(ふよほうしょう)、つまり藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の血を引いています。
第25代 武寧王(ぶねいおう)の遠祖である高野新笠(たかのにいがさ)を母に持つ桓武天皇(かんむてんのう)の血統である平氏とは、遠い親戚にあたります。
百済が高句麗や、新羅へ対抗するために倭(ヤマト王権)と連携を図ったのが、この武寧王の時代です。
武寧王は倭地で生まれ育ち、41歳の502年になり半島に移動して百済王に即位したそうです。
「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)によると武寧王の子の、第26代 聖王(せいおう)が、聖徳太子だそうです。
聖王は、「日本書紀」には「聖明王」または「明王」とあり、「梁書」(りょうじょ)には「明」の名で現れます。
武内宿禰を代表する渡来集団は、この百済の王族の可能性が高いように思います。
頼朝や、義経の先祖に、源満仲(みなもとみつなか)という人がいました。
彼が、この住吉大社にお参りした時に、神託を得て、兵庫県の川西市に武士団を結成したのが源氏の始まりです。
その後、源氏は、藤原五摂家(ふじわらごせっけ)に仕えて軍事貴族となります。
私のご先祖様は、この源満仲の弟の源満政(みなもとみつまさ)で、美濃国方県郡八島に住したことに始まり、八島大夫と称し、美濃に勢力を持ちました。
正暦5年(994年)朝廷派遣の盗賊探索の一員に加わっており、「武勇の人」とか「武者」と呼ばれています。
11世紀初め藤原道長に10頭単位で2回も馬を献上したほか、「翡翠」という名馬も献じています。
話が反れてしまいましたが、看板には、住吉神社の境内で狐の火を借りて無事に島津忠久を出産したとあります。
お稲荷さんは、島津氏の氏神だそうです。
島津氏も、藤原氏も、源氏も、平氏も、白狐にまつわる逸話が多いのは、同族だからだろうと思います。
藤原道長に仕えた安倍晴明(あべのせいめい)の母も、葛の葉(くずのは)という白狐だったと言われ、スサノオのシンボルマークとされる五芒星(ごぼうせい)を晴明紋(せいめいもん)と呼びました。
本来、関係のなかったお稲荷さんが、住吉大社と結びついたのは、イチキシマヒメを象徴する神功皇后が、住吉大神と共に、住吉四神になったからかもしれません。
この誕生石が「力石」だそうです。
そろそろ日が暮れてきたので帰りましょう。
まだコメントはありません。