この絵は、印象派の画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールの「レースの帽子を被った少女」です。
印象派という芸術運動は、19世紀末のフランスから世界中に広まりました。
それまでは、遠近法などの技法を使って、対象を正確に描写する肖像画が主流で、これを「写実主義」(しゃじつしゅぎ)と言いました。
とこらが、写真が発明されて、肖像画の地位が写真に取って代わられます。
そんな中、絵画の新しい流れとして「印象派」(いんしょうは)というものが生みだされます。
印象派の画家に、モネという人がいます。
例えば、モネなどは、光を絵の具に置き換える時に、絵を見る者の網膜上の錯覚を利用するかのように描写します。
画面上に、小さな色点を散りばめていって、全体として、そこに、光があふれているような描法です。
例えば、青と黄色の絵の具を混ぜると緑色になりますが、混ぜずに、キャンパスに、青と黄色の点を散りばめると、遠目に見ると緑に見えるわけです。
また、印象派は、それまでの細かいタッチの写実主義と違い、明るく、色彩に富んでいるのが特徴です。
私は、印象派の画家の中では、このルノワールの絵が好きですが、一番好きなのは、印象派の画家ではないピカソや、シャガールです。
それは、さておき、この印象派が主流をなしていた時代に風雲児が現われます。
近代絵画の父、ポール・セザンヌです。
セザンヌは、物の形を幾何学で捉えようとした人です。
彼は、自然は人物であれ、風景であれ、円錐と、円筒と、球体で捉えることができると言いました。
彼によると人間の顔は丸く、首は円筒で、人間の全体は円錐で表現が出来、顔のふくらみは球体の一部の重なりにすぎないと言います。
円錐、円筒、球体という幾何学の術語に置き換えて絵画を説明されると、理論好きな19世紀人は目をみはりました。
こうして、セザンヌの造形理論が、近代絵画の基本となります。
セザンヌが、歴史の中で巨大な存在になるのは、その理論的発展とされる「立体主義」(キュビズム)が成立したことも考えねばなりません。
キュビズムの出発点は、パブロ・ピカソの「アビニヨンの娘たち」という作品で、それを見た周りの人たちの反応は、あまりよくありませんでした。
しかし、ジョルジュ・ブラックは、その重要性に気付いて、ピカソと共同でキュビズムを追求しました。
キュビズムは、一点透視図法という遠近法を否定して、さまざまな視点から見た物の形を、一つの画面に収め、形態の解体、単純化、そして、抽象化を行いました。
こうして、抽象画の現代へと引き継がれていきます。
私は、芸術は、理論ではないと思っています。
好みだと思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチという、ルネサンス期のイタリアの芸術家がいます。
「最後の晩餐」や、「モナ・リザ」という絵画を描いた人で、とても、有名な人です。
彼の逸話で、おもしろいなと思うのは、彼のライバルだった、ミケランジェロ・ブオナローティという人との対話です。
ミケランジェロは、「サン・ピエトロのピエタ」や、「ダビデ像」という彫刻の傑作を作った有名な人です。
彼は彫刻の方が、よりリアルに、より立体的に、物の動きを表現が出来て、彫刻の方が絵画よりも優れていると思っていました。
そして、絵画を得意とするレオナルド・ダ・ヴィンチに自分の持論を展開します。
「彫刻の方が、絵画より優れている。」と。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、こう言います。
「それでは、その彫刻で、川を流れる、水を彫って下さい。」と。
…
ミケランジェロは、言葉を失います。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、さらに言います。
「一つの物の形を、表現するのは、彫刻の方が確かに優れているかもしれません」
「しかし、川の流れている様子や、太陽の日差し、水の輝き、みずみずしい植物の様子などは、彫刻では、とても表現するのが困難です」
「その点、絵画は、十分に表現が出来ます」
「絵画が、彫刻に比べて、劣っているとは、私は思わない」と。
この逸話を知った時に、私は感心しました。
美というものの、優劣は、時代によっても変わります。
写実主義、印象派、立体主義。
どれを、選ぶかは、私は、好みによる選択だと思っています。
よく、同じ値段の真珠を販売していても、お客様に「どちらの商品の方が価値があるのか」と尋ねられます。
そういう時に私は、「好みです」と答えるようにしています。
色にしても、形にしても、どちらの方が価値が上だという決まりはありません。
十人十色です。
なんとなく見て綺麗だなあと、本人が感じたら、それが価値のあるものなのです。
また、本人も、時代と共に好みや価値観も変わっていきます。
永遠の人間が存在しないように、永遠の美なども存在しません。
その時、それを美しいと思う自分がいるだけです。
どうしても自分の知らない分野だと、つい、専門家や、評論家の意見を聞いて判断しようとします。
だけど、そんな事は、あまり意味がないと思うのです。
美術の評論家なんて、大したものではありません。
自分の感性を信じて、美しいと思う方を選べば良いのです。
何故ならば、美とは、比べられないものだからです。